先週ゴンの千日まいりに霊場の六寺にお邪魔しました。

その折、あるお寺にていただいた冊子の中のお話がとても印象に残りましたのでご紹介をさせていただきます。

このお話は以前にもゴンブログでご紹介を申し上げましたが、それからかなり時間が経過しておりますので、またこの内容はゴン兄自身の弱い気持ちに語りかけられているものとして受け止めたく備忘録としてここに再度アップ致します。




お彼岸に、彼岸、を想う。

稲岡 春瑛



お寺にとついで三十二年、僧侶となって二十三年になる。

お坊さんは、なんの悩みもないはずと思われているかもしれないが、生きていることが面倒くさくなったり、死んだほうが楽だと思うことは何度もある。

そんなとき、私が思うのは彼岸のことだ。

私が言う彼岸とは、春秋の季節の変わり目のことではなく、この世・此岸・しがん、に対する、あの世、彼岸、という意味だ。


私は長崎県島原市で生まれた。

平成三年の要仙普賢岳の大噴火を記憶しておられる方も多いだろう。

そのふもとに私の生家はあった。

両親も亡くなり、そこには実家ももうないが、小学校からの親友の明子の家族の生き方は私の信仰の基盤ともなっている。

明子の兄が二十歳の若さで病死した時、父親は毎日泣いてお酒に逃げた。

当時私達は小学五年生だったが、親の悲しむ姿を見て明子も苦しんだ。

初七日、四十九日と菩提寺の和尚は明子の家に来てくれた。

憔悴しきった家族の姿は誰の目にも痛々しく映った。

和尚は何度かのお参りの時に見かねたのだろう。父親にこう言った。

「今日も酒の臭いがするな。毎日酒を飲んで泣いて暮らしても亡くなった息子さんは喜ばんぞ。

あんたのそんな姿を見て、息子さんは泣きよるぞ。

『ごめん、父ちゃんを苦しめた、ごめんごめん』って。

親よりも先に逝って申し訳なく思っている息子を、あんたはまだ悲しませるつもりかね。この世に生まれた者は誰でもいつかは彼岸に旅立つ時が来る。いつかは分からないが、逝ったら息子さんに会えるんだぞ!

その時に、息子さんにどんな顔をして、あんた会うつもりだ。昼から酒飲んで泣きはらした顔をして恥ずかしくないかね。『父ちゃん、よう頑張って生きてくれた、嬉しかよ』って喜んで迎えて欲しくないのかね。」

すると父親は「本当にまた、あの子に会えるとですか?」と聞いた。

「間違いなか。彼岸に渡れば、先に逝った人達に会える。ばってん、彼岸からはこの世・此岸が見えとると。あんたが酒飲んで泣いとる姿を見せて、悲しませたらいかん。息子さんが喜んでくれるような生き方をなさらんか」

和尚さんの話を父親はただただじっと聞いていた。

次の日から、父親は全くお酒を飲まなくなった。すると、少しずつ元気を取り戻して、明子の家に笑顔が戻ってきた。

しかし、平穏な生活はあまり長く続かなかった。父親に胃がんが見つかったのだ。手術は成功したものの、手術後には抗がん剤の治療が続き頭髪が抜け、吐き気が収まらなかった。

そんな父親の背中を明子はさすり続けた。

辛いかと問いかける明子に、父は弱音は吐かなかった。

そして父親は「俺はどんな治療も頑張れます」と積極的に治療の継続を望んだ。そんな姿に明子は苦しくても生き抜く父の覚悟を見た。残念ながらその甲斐なく父親の病気はさらに進み、一年後に帰らぬ人となった。

お通夜の日、小さくなってしまった父親のご遺体の前で、明子は私に「帰宅許可が出て家に帰ってきた時、父親は仏壇の前に座って手を合わせると『もうすぐ会えるぞ、待ってろよ』と言っていたんだ。私ね、父ちゃんが死んで悲しかよ。悲しかけど、今頃あの世でお兄ちゃんと会えて喜んでいるよ。お兄ちゃんは『父ちゃんがどう生きたか』ずっと見とらした。褒めてもらえたろ。父ちゃんは頑張ったもん、おかしかね。父ちゃんが死んで悲しかけど、父ちゃんは喜んでる気がするの」と、今はもう冷たくなった父親の手を擦りながら話してくれた。

明子は先立った兄や父親が彼岸にいると借じている。

だからこそ、父親の死に際して、父ちゃんは喜んでいる気がする、と言えたのだ。

いつも悩みに直面するその都度、私を奮い立たせるのは、明子一家が彼岸を信じることで生きる力を持てたことだ。

どこにいても、何をしていても、私は一人ではない、と思うと力が湧いてくる。


私の故郷島原は、有明海から陽が昇り、雲仙岳に陽が沈む。

日暮れ時、太陽が隠れはじめると、空の色は刻々と変化する。

明るいオレンジ色からくれない色へと変わり、ピンクがかった灰色の空はやがて深い紫色になって星が見え始めるのだ。

夕日が沈む西の空が美しく見えるのは、彼岸の世界の美しさと、先に旅立った人の願いを私たちに伝えるためだと、私は思う。


いなおかしゅんえい

東京都練馬区浄土宗林宗院住職

仏教の生活

平成三十年秋彼岸号より