ゴン兄です。
戦争が終わりましたね。
もう空襲はありません。

警報におびえて眠る夜も来ないのです。

 

でも、遅すぎましたね。
あと一ヶ月、早く終わっていてくれたら、

広島のご家族も無事だった。
晴美さんも死ななくてすんだ。
あなたの右腕を失うこともなかった。
なぜ、どうして…

虚しい問いかけをこれから先も続けられることでしょう。

そして、失った右手を見る度に、当時の辛い記憶に苛まれることでしょう。

 

今からちょうど10年前、わたくしは両親、ワンコと共に広島と長崎の親戚をたずねました。
鹿児島に友人もおりましたので、開聞岳を望む本土最南端の駅、西大山駅へも足を伸ばしました。

5月の一番気候のよい時期で菜の花が満開でした。

宮島の厳島神社や、山口の錦帯橋などへも寄ることができ、
自身の生涯の五指に残る素晴らしい思い出となりました。
その折に、広島の原爆ドームや資料館、

呉の大和ミュージアム、
長崎の原爆資料館、
鹿児島知覧の特攻平和会館もおとずれました。

もうその時点で65年以上を経過していた広島のドームを見上げても、正直、実感は沸きませんでした。
広島の原爆資料館に展示されていた、大勢の方の遺品を見た時もそうです。
でも、長崎の原爆資料館で読んだ体験談に気持ちをわしづかみにされました。

原爆によって崩れた我が家の下敷きになり、身動きがとれなくなった当時子供だったその方を、逃げ惑う人々は誰も助けてはくれなかった。
その時に全身大やけどで血まみれの母親が、力の限りを尽くして柱などをどけて救出してくれた。
発狂、絶叫とも聞こえる雄たけびを上げ、わが子を救い出してくれた。

そのお母さんは一晩中身もだえ苦しみ叫びながら死んでいったのだそうです。

読まなければよかった。
一瞬、そう思いました。
特攻平和会館では展示品の中に
わたくしの残りの命40年を、お父さま、お母さまに20年づつ差し上げます。わたくしの分まで長生きして下さい。
とのまだ10代の特攻隊員の絶筆がありました。

涙が止まりませんでした。
あまりにむごく、残酷で悲しい。
戦争の悲惨さを、そこでいずれも実感しました。
広島ではなかったことを申し訳なく思います。

町内のはるさんが広島から帰ってから、ずっと塞ぎこんでいるとのことですね。
広島がふるさとの人ならば、今の広島を見ないほうのがいい、とも言われておりましたね。

わたくしもそう思います。
でもご両親のことが心配ですよね。
広島へ行く手立てのないままに、9月10月を迎え、あなたのご心境はいかばかりでしょう。
お辛いこととお察し致します。

 

どうか気をしっかり持って、朗報を待って下さい。
悪いことばかりは続きません。
そう信じましょう。

また来週、お便り申し上げます。

北條すず様

 

ゴン兄

 


追伸です。
父が気に入って買ってきたハイビスカスの鉢植えが、毎朝かわいらしいまっ赤なお花を咲かせてくれています。

ここ1ケ月、ずっとです。
この花に癒されます。
一方でこのお花によって、やはり戦争当時の沖縄へと思いが馳せるときがあります。
ガマとよばれる真っ暗な洞窟で、まだ幼いわが子を、震えてしがみつく愛しいわが子を、

集団自決の名の下にあやめなくはならなかった若いお母さんたちのことを考えます。

戦争で犠牲になるのは、いつも女性や子供たちです。
罪のない市民です。
世界では今もそういう事態が起きています。

祈りも願いも届かない場所があります。
強い憤りを感じます。
無力感を感じます。
すずさん、

これでよいのでしょうか。
よいわけなどありませんね。
もう今は静かに眠っておられるあなたにこのようなお話をすみません。

まだまだお話したいことはたくさんあるのですが、今日はこのあたりで失礼します。
起こしてしまいごめんなさい。

 

雨に濡れています。
9月に入り、幾分涼しくなりました。