10月20日は
新聞広告の日でした
新聞広告と言えば若い頃
広告関係の会社に
勤めていて
新聞広告の
コピーライティング
もしていました
写真は1988年の
神戸新聞の広告です
私が書いたのは中央の
詩のようなサブコピーと
左側の広告コピー3本
私が書くことを仕事にして
最初に手掛けたのが
神戸新聞の
広告のコピーでした
当時、20歳の私に上司が
「書いてみるか?」と
言われたのが
きっかけでした
私は高卒で
小さな広告代理店の
一般事務として
働いていましたが
その経緯がちょっと
普通じゃないというか
今思えばADHDの
衝動的な特性が
良く出ている
エピソードなんですよ(笑)
この話をする前に
まず高校受験の話を
中学時代の私は
小学生からのいじめから
逃げられずにいたので
高校は
私立に行って
環境を
一新したいと
思っていました
実家が商売を
していたので
商業科が良いだろうと
深く考えもしないで
決めました
でも、いざ商業高校の
授業を受けてみたら
ことごとく商業科目が
ダメで経理事務の仕事は
向いていないことが
わかりました
その高校は
珠算日本一の人が
いるような
商業高校としての
実力やネームバリューが
地元ではあったので
学校の求人は
ほとんどが
経理事務でした
経理事務の仕事が
むいていないのは
既にわかっていたけれども
私立に行きたいと
親に言ったときに
「大学には行かないから
私立に行かせて」と
言った手前
大学へ行くという
進路も選べない
どうしよう⁉と
思っていたら
当時、良く聞いていた
ラジオ番組を通して
知り合った
大学生のお姉さんが
神戸の北野にある
小さな広告代理店で
アルバイトをされていて
私も遊びに
行ったことがあり
広告代理店の仕事に
興味を持ったので
社長に「お給料安くても
良いので働かせてください
商業高校出身だか
事務もできます」と
直談判したら
働けることになりました
18歳から22歳まで
4年間働きましたが
事務以外にも
営業アシスタントして
営業と広告のコピー
アートディレクション
イベントの企画の
アシスタント業務
継続的な仕事や
小さな仕事なら
任せてもらえるよう
にもなりました
この時の
経験を通して
クリエイティブの
感性を
身につけることが
出来ました
この4年間は
53年間の
今までの
私の人生の中で
1番楽しく
私の人生の
大学でした
でも、小さな
会社だったので
経営が傾いたことと
私自身も
キャリアアップしたくなり
今度は大阪の
小さな広告制作会社の
初の営業及び
アートディレクターとして
雇われました
そこでは初め
予算節約から私が
コピーライティングまで
するようになりました
広告のコピーだけでなく
雑誌(主に
京阪神エルマガジン社の
SAVVY)の取材や
企業の会員誌を
企画から取材
著名人(故大島渚映画監督
ラグビーオールジャパンの
故宿澤広朗元監督など)の
インタビューの
コーディネートから
インタビュー
記事執筆まで
手掛けました
この時の経験は
かなり
スキルアップを
学べました
この時の作品たちは
度重なる引っ越しで
なくしたり
発達障害児の子供たちの
手によってボロボロに
されたのは悲しいです😢
でも、神戸新聞の広告は
図書館の
マイクロフィルムに
あったのと
25年前、長男が
赤ちゃんの頃に
社会復帰の
ワンステップとして
子連れで参加した
子育て地域情報誌
『奈良らぶりい
ママ情報誌』は
実家にあったので
私の作品として
残っています
私の作品として
残っていく
のですね
先月末、
このブログから始まった
私の
ライフシフトは
私の人生を
好転させて
くれそうな
予感があります
それは
ふたつのことが
私の今までの
人生の中で
一番楽しく
輝いていた
時とシンクロ
しているから
この続きは次回に🍀