今日は私の子供の頃のお話をしますね。
私は小さい頃から、心身の痛みに鈍い子だったようです。
1歳くらいの時にベビーカーに乗せられて動物園に行ったときのこと、何かの動物に驚きベビーカーごと倒れてしまいました。
でも、あまり泣かなかったので母もさほど気にしないでいたようです。
ところが一緒に行った方や道行く人に「この子、顔色悪いけど大丈夫?」と言われ病院に連れて行くと足を骨折していました。
医師に「何でもっと早く連れて来なかった⁉」と怒られたそうです。
でも痛い治療をして普通の子なら泣くのに、全く泣かなくて「こんな我慢強い子なら、お母さんが気付かないのも仕方ないわ」とおっしゃったそうです。
我慢強いの
ではなく、
痛みに鈍いのです。
でも、この鈍さのおかげで小中学校時代のいじめ、上手くいかなかった結婚生活、子供たちの発達障害や不登校、そして子供5人のうち2人の子供が亡くなった時でさえも何とか前向きに生きてこられたのかもしれません。
この鈍感力が
なければ
私の人生はもっと
つらいものに
なっていたと
思います。
私が生まれたときは体がとても弱く、熱と嘔吐を繰り返し母乳や普通のミルクが合わず植物性のミルクで育ちました。
そのことも影響して発育も発達もゆっくりでお座りは1歳近く、歩いたのは1歳半だったようです。
おしゃべりは3歳まで
出来ませんでした。
小学校に上がるまで頻繁に病院通いをし、医師からは3歳まで生きられるかどうか、生きられても障害はあるだろうと言われていました。
でも当時は発達障害という言葉も理解も支援もなかったので、両親は体が丈夫になったことで、成長と共に普通に生きていけるだろうと思っていたようです。
しかし、医師が言っていた障害というのは身体や内臓的なことではなく、発達面のことだと今ならわかりますが、当時はわからず親は「なぜ出来ない?」「なぜわからない?」と思うことが多く厳しく躾けられることもありました。
もともと説明したりするのが苦手だったので、いじめられていても親に言うことができませんでした。
保育園、小中学校時代はADHDの特性で忘れ物の多さ、だらしなさ、空気が読めないことや、小さいときに患った脱腸の後遺症で便が緩くよく下着を汚していたのでいじめの的にされていました。
でも一人遊びが平気だったので、友達は少なかったですがお絵描きやお話を作ったりして空想の世界で遊ぶのが好きでした。
それが若い頃にした広告関係のクリエイティブな仕事やこのブログを書いたりする作業に繋がり生かされています。
鈍感力、
空想力以外に
私の生きづらさを
和らげてくれたのは
柔軟性や視野を
広げることでした。
変化を受け入れる柔軟性を身に付けたきっかけは、小学校4年生のときの分校から中学校での元クラスメイトたちとの再会でした。
私が入学した小学校は通学に1時間ほどかかるマンモス校でした。
1クラス40人以上で7クラスもあり、小学校4年生のときに分校ができ通学時間も人数も半分くらいになりました。
そして中学になると再び分校前に一緒だった人たちと顔を合わせることになり、いじめっこの男子たちにまたいじめられると私はビビッていました。
だけど中学生になったその男子たちのほとんどは、いじめも、からかいもせずに普通の態度でした。
はじめは戸惑いましたが、
次第に人は成長とともに
変わっていくことに
気づき、
いじめがずっと
続くわけではないんだと
時の流れの先に希望を
見出すことができました。
また、学校以外の居場所も私の救いになっていました。
小学校1年生から高校を卒業するまで入っていたガールスカウトでの友達との関わりや、ガールスカウトは世界中にある団体なのでいろんな国の人たちが集まる国際キャンプに参加したこと。
また、1979年に大好きな音楽グループ、ゴダイゴが国際児童年のテーマソング「ビューティフルネーム」を歌っていたことで私は世界に目を向けることができました。世界が広いこと、先進国だけでなく、発展途上にある国や紛争などで飢餓に苦しむ国、難民がいることも知り、
自分の周りの
世界や
いじめられている
問題は地球規模の
広い世界に比べたら
狭い小さな出来事、
すべてではないと
思えたら気持ちが
楽になりました。
ゴダイゴの「ビューティフルネーム」の話をしましたが、このブログの内容から「ビューティフルネーム」より、2015年に発表された「きみはミラクル!」をご紹介したいと思います。
きみはミラクル!
涙をほほえみを
この現在(いま)を
わけ合おう
奇跡をそうさ
ありふれた
しあわせにしようよ
この広い世界に
君は君しかいない
A Miracle
そのいのちの輝き
だれも真似できない
A Miracle
これらの経験は私が新しいことにチャレンジすることで感じるワクワク感、
開拓精神を
目覚めさせたのだと思います。