こんな記事を書いた。
そのつづき。
人が「傷つく」のは、無条件に愛する(愛したい)のを阻害された、と思い込むからじゃないかと思った。
そもそも誰でも何でも「本質」ってのは、愛そのものって云うよね。
ちょっと次元?が下がって、「(無条件に)愛したい」「(無条件に)愛せる」が人間のベースにあって、それを妨げられると「傷つく」と勘違いするのかも![]()
「私は(無条件の)愛を体現したいのに、お前(や何か)のせいでそれができない
」ってやつ。
「お前」や「何か」を理由にして、無条件に愛さない(愛せない)。
でも多分、何より自分が「愛せない」つまり本質を体現できないことに、自分で自分の首を絞めて苦しんでいるような。
そんなところが、確かに私にもあったなと。
自分の本質は愛そのものなんだと知って、傷つくことなんか気にせず、本質そのものであること。
それを体現できるのが、大人になるということなのかなと思った![]()
私の場合それに気づけたら、誰をも何をも理由にせず「愛そう」と思えた。
私にとっての「無条件の愛」とは「全肯定」![]()
対個人への「愛情」じゃなくて、存在そのもの自体への眼差しで、尊敬も含まれている。
だから壁叩きの隣人も、人のせいにしまくる父も、「そうであっても」肯定する対象になる。
今は彼らの小我すら「カワイイ
」と微笑ましく思える程に、まともに相手にしていない感じ![]()
つまり、彼らと同じ所に立っていないーー私の立つステージが変わったんだと思う。
彼らでさえ、私が映し出した映像の一部。
彼らによって炙り出される抵抗を都度手放しては、私自身が愛そのもので存在することを選び続ける。
私という「愛」を妨げるものは、私以外には何もない。
だんだんと、もしかしたら、そうすることがずっと幼い頃からの願いでもあったように感じられてくる。
それが出来るように、ここまで至らせてくれた彼らに感謝が生まれた![]()
すると、統合も更に楽になった![]()
モヤっとしても「ホントは無条件に愛したいんだな」と分かってるので、本音に軸足を置いていると、周波数に引きずられない。
「ああ、はい
」といった感じで、簡単に手放していける。
振り返れば「愛したい、でも出来ない
」は、ある意味「拗ね」だったのだとも今は思う。
でもさ、もういいよね、そーゆーの。
そもそも「愛そのもの」の存在なんだから、「愛したい」って時点でズレてるし。
「出来ない
」「やれない
」ばっか言うのは止めて、さっさと立ち返り、本質を現してしまえばいい![]()
人や何かのせいにして、自分の本質を避け続けるのか。
それとも、何があっても自分の本質を体現し続けるのか。
望む方を選んで、好きに生きよう。
読んでくれてありがとう![]()
五月、爽やかで気持ち良い~
素敵な日々を過ごされますように![]()
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