ずっと私は、気づきを肚に落とし込む為にブログを書いてきた。
今ホントはあんまり書く気はないんだけど、書いとかないと忘れそうだから書く
子どもの頃から読書が大好きだった私は、本を読みながら歩くのはフツーで、暗い所でも本の虫をやって目に悪いと親に怒られる始末。
それだからか視力が低く、けれど一番後ろの席からでも黒板はフツーに見えてたんだよな
小学校高学年になってやっと眼鏡を手にして、でもほとんど掛けず、高校生になってもたまにする位。
大学生の頃もほとんどしてなかった…けど働き出してPCよく使うようになってからは常用するようになった。
私は幼い頃からずっと視力が悪いって「良くないこと」だとは思ってなかったんだよね。
一般的には「良くない」と周りはどうこう言うけど、自分にとっては見えないのがフツーで別に「悪いこと」ではないから、周りの押し付けに抵抗する気持ちがあって、ずっと眼鏡を掛けなかった。
大人になってからはルッキズムが鬱陶しく、顔を隠せるので好んで掛けるようになった。
その後私淑する並木良和先生もあまりよく見えてないと知り、
けれど「大丈夫なんだよね~」と裸眼のままでいらっしゃるのを見て気づいた。
私、視力が低いのは、見えなくてもいいからだって
五感のうち、今の世の中で一番刺激が多く強力なのは視覚だよね
視覚に強く引っ張られると呑まれてしまって外側意識になりやすいと、最近眼鏡を外す時間をとるようになって気づいた。
あと眼って身体の上の方にあるから、眼を使い過ぎると意識も上がって浮ついてエゴに支配され易くなるような。
だから私は必要以上に見えなくてよくて、じゃあ何がどうなるといいんだろうと思ったら分かった。
心の眼を開き、心の眼で視る
私はそれで充分なんだ
意識をみぞおち(肚でもハートでもいいと思う)に置いて、そこに大きな眼があって、そこから世界を認識する。
そんな在り方でいつもの道を歩くと、意識の軸もしっかり立つし、認識の範囲が広がって悠々と存在できる。
眼も疲れず、よく見えないから外に意識が引っ張られず、その分自分に集中してるから元気だし、プラチナシルバーのフィールドもずっと意識してられるし、良いなコレ。
姿勢も良くなるし、一体一石何鳥になるんだ
そんなこんなで、世に一般的とされることから外れていても、きっとそれは魂の計画に沿ったもの
今世の私も、魂の計画に最適にデザインされて生まれてきた。
色々抵抗することなく受け入れて、大事なことに気づけるといいよね
と、雑~に締めて…今日は終わろう。
読んでくれてありがとう
来週春分だー、うわ~
どうぞ素晴らしい日々をお過ごしください