今朝、クリシュナムルティの言葉を聞いて、
ハッとするような静けさが心に広がった。
「人は自分の望みを叶えようと、自分や他人を変えようとする。
でもその根っこには、恐れがある。」
本当に変容を求めるなら、
ただ、内面や世界、関係性を“純粋に観る”ことだと彼は言う。
「観る」だけで変わるなんて、昔の私ならきっと信じなかった。
でも、最近ようやくその意味が少しわかってきた気がする。
怒りや、悲しみや、ざわつき。
それを解決しよう、正そうとする前に、
「あ、今わたしは怒ってるんだな」と、ただ気づいてみる。
そうすると不思議と、少しだけ距離ができて、
その怒りに“飲み込まれない”自分が現れる。
それが、「観る」ということなのかもしれない。
観て、本質に気づくとき。
そこに知性が生まれ、そして愛が宿る。
愛は、「わたし」と「あなた」の境界が溶けたときに、そっと現れる。
今日も、そんな風に過ごせたらいいなと思う。
怒りを否定せず、ただ観る一日。
その先にきっと、“ほんとうのやさしさ”がある気がしている。
自分も他人も、ありのままに観ることは簡単ではない。
ふと気がつくと、
条件付きの愛を求めていたり、
誰かをコントロールしようとしていたりする自分がいる。
そして、そんなときほど心は苦しくなる。
「こうあるべき」
「ちゃんとしてくれない」
「私ばかりが」
頭の中には、価値判断というもっともらしいジャッジが
瞬時に立ち上がってくる。
でも、それに気づいたとき——
そこからやさしく離れて、ただ“観る”ことができたなら。
その瞬間、自分にほんの少しの自由が戻ってくる。
私たちは皆、
知らず知らずのうちに「こうであってほしい」という期待や、
「これが正しい」という判断に縛られて生きているのかもしれない。
でもその一歩手前で、
ただ観ることができたなら——
そこに、ほんとうのやさしさと自由が生まれるのだと思う。
今日もまた、
条件づけられた愛や価値判断に巻き込まれそうになったら、
ふと立ち止まって、自分の内側に静かな視線を向けてみよう。
変えるためじゃなく、
ただ“観る”ために。
そこから始まる何かを、私は信じていたい。
