ウイズ東淀川7月レポート | ウイズ東淀川のブログ

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平成6年7月から、東淀川区において結成された、コミニケーション・ボランティア・グループです。
奇数月の第二日曜を定例会とし、【共生】を理念として、共に語り・共に学び・共に遊んでみませんか「をキャッチフレーズに、誰もが集える」場を提供しています。

  平成27年7月12日(日)  ギャラリーNOVA自由空間において、パネラー 伊藤繁 氏をお招し、障害者の就労の現状や、視力を失ってからも毅然と生きておられる力強いお話しをお伺いしました。
 
パネラー 伊藤 繁「しげる」 氏
NPO法人視覚障害者自立支援センター 事務局長
 株式会社コスモス 代表取締役
大阪市立大学共生社会研究会会員
 
☆ 初めましてという人が赤星さんをのぞいてほとんどだと思います。伊藤繁と申しまして、今年で65歳になります。18年ほど前に急激に視力が衰え始めました。いわゆる網膜色素変性症と言う遺伝的な病気に族します。昔は夜盲症などと言われてました。ビタミンA不足などという事ではなく、劣勢の遺伝なんです。兄弟は誰もいないんです。急激に視力が衰えてきて、仕事にさしつかえる様になったのが、18年前でした。それまで、いろんな仕事をしました。飲食業や不動産屋などです。不動産屋は視力がないと紙の資料が読めないんです。そこで、視力のない私達はどうすればいいのかという事で、仕事を考えると、昔ながらの鍼灸マッサージの仕事でした。今では名称が変わっていますが、区役所の障害福祉課というところへ相談に行きました。「マッサージの仕事をして生計を立てたいんですが」と相談しました。すると、マッサージの視覚を獲るんでしたら、神戸に国立視力障害者センターがあります。との案内。神戸の視障センターを紹介されました。そこへ行ったら授業料もいらないし、宿泊する寮などもありますからという事を言われたんです。ですが、家族もありますし、難しいという結論になりました。他にないんですかと尋ねると、民間で教える専門学校がありますと案内されました。でも、そこは授業料は高額ですよね。そうですかという事で、今度はハローワークに行きましたら、区役所と同じことを言うんです。ところが、女房の。知り合いから聞いた情報によると「何言うてんのん盲学校があるやんそこで鍼灸教えてくれるよ」マッサージ教えてもらった人知ってると言うんです。その情報から私も直接大阪市立盲学校へ電話しました。すると、「もう今年度の募集は終了しましたので、来年度に備えてください」と言われました。そのように翌年度から大阪市立盲学校鍼灸マッサージの専攻科へ入学しました。
 このような情報の非バリアフリーを受けるのは縦割りのせいなんですねと役所の方にいうと「そうかも知れませんね」との返事でした。盲学校は文科省の管轄です。障害福祉課と言うのは厚生労働省の管轄なんです。ですから、神戸の視障センターは厚生労働省の施設なんです。だから、そこは厚生労働省の琴しか分らないんです。それに比べて、東淀川区や東住吉区は府市の盲学校がありますので、こういう事は少ないかも知れません。そんなことがありまして、47歳で2級の身障手帳をいただきまして、いきなり重度障害者になりました。翌年の募集に応募し、盲学校理療科「鍼灸マッサージ」へ入学したんですそこで、前回のパネラー松浦登氏と同じクラスになったんです。それが約20年前のことです。盲学校へ入学して思ったのは、先生方や生徒さんが厳しい言い方をすれば、「ぬるま湯に浸かっている状態だ」と感じました。自分達は視覚障害者なんだから、助けを借りるのは当たり前!また、盲学校の理療科の先生たちは技術がへた。教科書通りの教え方では実践に通用しないと感じました。2、3年生になったら卒業生の経営している治療院へ研修に行くと、必ず言われるのが、「学校で教えられるのは初歩の段階でうちに来たら、全て変えてもらうよ」と実践をしている先輩方はおっしゃいます。理療科の先生方は技術を磨くような努力はしません。
 視覚障害者の世界では、盲学校の理療科の先生になるのがトップクラスの出世なんです。学生の身分はと言うと一番下に位置します。このような状態から技術を高めるにはどうすればいいか考えました。1年生の夏休みが終わる少し前に、「我々は視覚障害者だが、ボランティアに行こう」と特養の老人ホームえマッサージ・ボランティアを行ない10名以上の参加者を得ました。特養ホームの利用者は関節が曲がっていたり、自分で退位を変えることができにくい方々です。いろんな症状の方がおられて、実践的施術に非常に勉強になりましたので、月2回土曜日に訪問しました。この会をコスモスと名づけました。 今の会社の名前コスモスはここからきています。このボランティア活動は私の卒業後も後輩たちが4年ほど引き継いでくれましたが、 自然消滅しました。
 

<<就労支援を考える>>>


 盲学校卒業後、視覚障害者の就労支援をしようと考え、NPO法人を2002年に設立。自宅での治療院をしながらのことでした。NPOをしているといろんな方との繋がりを持まして、それまで視覚障害者をメインにやっていました。知的障害の方発達障害の方と父兄の方とお話しする機会が多くなりました。視覚障害者だけを考えていてはいけないなと言う気になりまして、自分自身もっと勉強しなければいけないと思いました。ちょうどその頃社会人大学院と言う者がありまして、大阪市立大学院の二期生として入学しました。私の場合は高校卒ですし、盲学校も専攻科です。募集要項に社会人経験3年以上で、大卒でなくてもよいという事だったんです。大学に目が不自由なんですと聞いてみますと、一度おいでくださいとのこと。授業について行けるかどうか面接されました。授業には携帯用読書機とデイジーを持って行ってこれでメモ録音ができることを示し、大学院で何を勉強したいのか、論文としてA4で10枚ほどの提出を求められました。論文審査で入学資格を認められました。2年間夜火・木・土曜に登校し、火・木は6時半から土曜は朝10時から5時までの授業でした。いろんな方が来られていましたが、視覚障害者は私が初めてという事でした。大学院では拡大読書器を2大購入していただきました。大学では共生社会という分野を研究しました。左翼的な方も在日の方もいろんな方がおられ、文字通り「ノーマライゼーション」でした。

<<障害者の一般就労を目指す>>


  知的障害を持った子供さんのお母さんたちは必ずおっしゃる言葉が、「私達親が生きているあいだはいいが子供一人になった時のことが心配」だという。その受け皿となるべく大学を卒業後「㈱コスモス」の設立に至ったのです。障害者の就労支援をしようとした時ちょうど法律が変わったんです。障害者支援法と言う法律ができ、就労支援と言うことができるようになったんです。昔で言う授産施設でなく、一般就労を目指す訓練を行なえということです。また、株式会社でこういう事を行なうのも初めてだと思います。ほとんどが障害者施設がらみのようです。行政の方もまさか株式会社がでてくるとは漕艇していなかったのではないでしょうか。コスモス利用者は定員20名のところ、24名の利用者でして、就労率は2年間で35%です。その内1年以上定着しているのは7割です。非常に就労率定着率ともいいんです。それは、独自のカリキュラムを組んで体験就労に何回も行きます。その人の特性や何ができるか。就労が決まっても3年間はアフターフォローのため会社へ訪問します。フォローしてもお金にはなりません。ですが、次の就労者に繋がるのです。これが、コスモスケアサービスの業務です。

<<就労の実態>>


障害の重度軽度にかかわらず、その人に合った仕事を見つけるのが私達就労支援者の仕事です。たとえば、この近くに【スシロー】がありますよね。そこの炊飯業務にきにコスモスからお世話した人が3年前就職した実績があります。

それから、精神障害の方々が困っているんです。そこで、精神障害者を中心にした生活支援のためコスモスクラブを設立し、そこにも13人の利用者がいます。ありがたいことに細かく就労支援をして行ったおかげで、支援学校や専修学校・私立の高校などからの評判も良くて時年度の募集も11月1日の募集解禁日に定員をオーバーするようになりました。

<<盲導犬を持った訳>>


 15年ほど飼っていた犬が亡くなり、1年ほどして自文の活動も広がり、視力の低下も感じたので盲導犬を持つことに決めたんです。千早赤阪村日本ライトハウス盲導犬訓練所で4週間の共同訓練を受けました。今では盲導犬との生活も4年になります。


*いろいろ話題は広がり、伊藤さんは次の仕事のため、4時になりましたので散会となりました。
伊藤さん 貴重なお話ありがとうございました。
by 鈴木