今日、ミュージカル「マリー・アントワネット」の自分の観劇レポートをまとめてみて、改めて今回の再演について考えたことがあり、どうしても残しておきたいので、後日談という形でここに書き記します。



二人のMAの対比が最重要であるという見方は取り払うべき見方であり、今回はマリーの物語として捉えるべきだろうという考えは変わりません。

しかし、この「マリー・アントワネット」には「本当のマリー・アントワネットの姿を伝えたい」という演出家のロバート・ヨハンソン氏の言葉以上にテーマはない、もしくは見えてこない、という考えは誤りのように思えてきました。
10月14日マチネ公演を観劇して感じた、マリーの、マルグリットの、フェルセンの、オルレアン公の、ランバル公爵夫人の、エベールの、民衆の……それぞれの「正義」があって、その正義の善悪を測る絶対的な基準はどこにも誰の元にもなく、自分が信ずる正義こそがその人にとっての善だ、というのが、やはり主題なのだと思います。
MAの主題は「正義」。これは間違いないでしょう。

ですが、それをおそらく二人のMAの対比を中心に据えて見せたと思われるのが初演、それをマリー・アントワネットを中心に据えたのが再演です。

マリー・アントワネットとマルグリット・アルノーの対比はそれほど強調されないことにより、再演ではよりマリーの正義や人間らしさに目が行くのではないかと思います。古川さんはインタビューでお客さんたちがマルグリットに感情移入するだろうと仰っていましたが、私は初演を観ていないので憶測にすぎませんが、再演での演出変化によって初演よりもマリーに感情移入しやすくなったのではないでしょうか。

マリーの正義が何であったのか、そこに観客の目を向けさせること、それこそが今回の演出家の「本当のマリー・アントワネットの姿を伝えたい」という意図を叶える鍵なのだろうと思うのです。

ちなみに、では何が「本当のマリー・アントワネットの姿」なのかということですが、
私はやはりこれまでのレポートにも書いた通り、マリーの人間らしい強かさ、だと思います。具体的に言えば、マリーが革命の中でいつ命を奪われるとも分からない状況で、家族を守るために母として妻として、愛する恋人を利用してでも危険を冒し奔走する姿だと思います。タンプル塔でラブレターと偽り、マルグリットにフェルセンへの救命要請の手紙を託す場面は、その最たるもの。

古川さんがインタビュー(https://engekisengen.com/genre/musical/8699/)で明かした「仕方なくというより、周りの人の陰謀でマリーが処刑されることになってしまった部分を描きたい」という演出家のロバート氏の言葉。この周りの陰謀によりマリーが「殺された」という部分が描かれることによって、マリーの正義はより強調されるのだと思います。それだけでなく、間違いなくフェルセンの視点も非常に明確になるんですよね。手紙でマリーの死を知らされ、「まさか、信じられない。殺されてしまった」と独りごちるフェルセンは、マリーとマルグリットのそれぞれの正義をよく理解した上で中立の立場にいた人で、マリーをずっと見てきた人で、その上でマリーが処刑されるほどの重い罪を犯したとは到底信じられないと、「殺される」べき人ではなかったと、そう思っているはずです。そう考えると、フェルセンの回想シーンに始まり、回想シーンに終わる演出は大変意味のあるものです。というか、やはりこれはフェルセンの目線を通して見せる作品なのだな、と原点回帰するわけです。

色々今まで穿った見方をしすぎたように思います。
MA、改めてDVDで観て、楽しみたいです(*゚▽゚*)

**ゆうふじ(*´ω`*)**