ミュージカル「マリー・アントワネット」東京公演、10月14日マチネの観劇レポートです(*゚▽゚*)
Twitterに上げた感想まとめ。






ついに待ちに待ったMy初日です!


まずは登場人物とそれを演じる俳優さま方を中心とした、物語全体の感想から並べていきます。

『1789』との比較がかなり多めです。


古川フェルセン麗しい素晴らしい。そして、沈着冷静で知的で聡明なフェルセンと感受性豊かで可憐で良くも悪くも世を知らなマリーすれ違いが悲しい。花總さんだし、マリーに感情移入しちゃうかなと思ってたけど、今回はフェルセンに、でした。


マリーは現実から逃避しているという訳ではないように思えるし、ハプスブルク家からフランス王室に入った自分をフランス王妃だと認めてもらうために、自分の正義に従って贅沢な生活をしてる。それは国の誇り高き王妃として正しくはある。でもその姿に、城の外の人々の様子を知るフェルセンは焦る……。


1789で演じていらしたマリーとはだいぶ印象の異なるMAの花總さんのマリー。1789では描かれなかった細やかな心理描写が見られて、王妃として一人の女性として自分の信ずる道を進む健気さが強調される。でも、私は1幕ではいまいちマリーに同情も共感もできないなと思いました。

1789とはフェルセンとの関係が違って描かれてるからかな。1789ではマリーの方からフェルセンをとの関係を切り、それでも追い続けるフェルセン。MAではフェルセンの方から別れを告げるも、マリーは諦めきれない。1789は副題の通り、民衆の物語で、且つ愛の物語だけど、MAはもう少し客観的な視点の歴史映画を見ているような印象を受ける。舞台を囲むオペラ座のような枠もそのシンボルのようだった。


1789のマリーとMAのマリーでは、歴史の切り取り方が全然違うし、どの時点まで描くかという点も違うことで、受ける印象がかなり異なる。マリー・アントワネットやフランス革命のことはある程度知っているとはいえ、舞台になるとそこに表現されているもので考えるんだなぁ。どっちも見られて良かった。1789のマリーは王妃としての自覚に目覚め、逃げることなく誇りを持って運命を受け入れるけれど、MAのマリーはきっともっと史実に近く、フェルセンへのラブレターとしてマルグリットに託す外国への援護要請の書簡なども踏まえると、計算高く強かで、最後まで自らが理不尽だと思うもの、敵だと思うものと戦う。

このように、表立ってはみっともなく足掻いたり、抵抗こそしないものの、静かに戦う姿勢を見せるのが、MAのマリー・アントワネット。聡明な女性というより強かな女性。愛する家族を救うため、自分が持てる力、コネ、なんでも使って出来る限りのことをする恐ろしいほどの冷静さ。2幕はそんなマリーに心奪われた。

1789は愛が主題だから、フェルゼンの手助けを拒みルイ16世の手を取ること即ち王妃の務めへの目覚めというのが重要。MAでも国王の手を取ることは鍵だが、彼女なりの王妃の自覚(王妃の格を保ち人々に受け入れられること)には最初からとっくにできているので、子を守る母を自覚することがポイントなのだと思う。おそらく。



古川フェルセンは真っ直ぐで一途で、理知的だけど優しくて温かくて、真面目で堅物っぽいところが軍人っぽくて、とても良かった……。幸せな時も危機に晒される時もいつだってマリーに寄り添いたいときっと心の底では強く願っているけれど、そんな自分だからこそ、マリーに忠告を繰り返すのね……。


フェルセンはマリー・アントワネットが意図的に国を滅亡へ導くような人ではなかったこと、何も知らず夢の中で生きる少女でしかなかったことを、一番知ってる。だからこそ、この後自分の愛する人が、裁きを受けて断頭台に掛けられ処刑された、ではなく、民衆に「殺された」と思い始めてしまうんだろう。あくまでこの物語の中では、だけど。


歴史物に愛するが故の別れはつきものだけど、そろそろ古川さんには幸せに誰かと結ばれる役にもついていただきたいな……とか思ってしまうほど、辛い。

古川フェルセンひとつだけ注文つけるなら、2幕の手紙のシーンのデュエット、もう少し歌詞がはっきり聞こえると嬉しいなぁということかな。花總さんはよく聞こえたけど、重なってるから古川さんの方は聞こえづらかった( ;  ; )


マルグリッドは今まで見たソニンちゃんの役の中で一番「弱さ」を感じるかも。1789のソレーヌも農民出身で娼婦として日銭を稼ぐ生活だったけど、それでも強かった。誇り高く生きていた。でもマルグリッドからは常に諦念を感じる。革命家に協力するけど、自分をも他人をも諦めている。失望なのかな。



今回MAを観て、やっぱり東宝作品常連のおじさま俳優の色気にやられてしまいました。

オルレアンの吉原さん、エベールのさかけんさんの声の色気がすごい。なんて甘い声で言葉を紡ぐんだろうってドキドキした。吉原さん本当にかっこいいです。岡様みたいな圧!って感じで歌うのかと思ったら、予想外に優しく穏やかな歌声。



次に、演出や脚本、楽曲、訳詞等、作品の構成に関わる感想を。


1789をはじめ、よく見ている小池修一郎演出作品は性善説が根底にあるイメージだけど、初めて見るロバート・ヨハンソン演出のMAは性善説とも性悪説ともいえないリアルな人間の性(さが)と生をまざまざと見せつけられたという感じがした。単に演出家の違いによるとは断言できないけど、脚本家は同じなので。


MAの考察をポロポロしつつ、パンフの吉原さん、まりおくん、古川さんの対談読んで、感動しました。まりおくんフェルセンは今回見られなのが残念なんだけど、彼らおよび演出家のロバート・ヨハンソン氏が表現しようとしたもの、全部初見で気づけた。舞台芸術全然学んでない私にちゃんと伝わってる。ミュージカルは大衆向けの芸術のひとつだから、当然といえば当然なのだけれど。

今回のMAはと特に何をどう伝えたいかということが、舞台そのものから素直に観て取るべきのような気がする。というかそこを素直にとらえてこそ、意味があるって感じかな。1789みたいに「愛」とか絞られたテーマに囚われず、人のさがと生き様をそれぞれありありと伝ええる。それを感じさせることが演出家の意図の核心なんだと思った。

1789とは別の側面から、マリーに親しみと共感を感じることができる作品に仕上がっていると思う。その生き方の良いところも悪いところも含め、同じ人としてね。絶対的な善悪の物差しなんて神様しか持っていないから、吉原さんも仰っているようにそれぞれの「正義」がこの作品の肝要として浮かび上がる。


マリー処刑後、その死を手紙で伝え聞くフェルセンの回想という形で始まるけど、市民たちの捉え方とかは特にフェルセンフィルターがかからないので、歴史大河ドラマ的な主観と客観のバランスで物語は進む。でも、不穏な感情や出来事が穏やかな曲調や楽しげな曲調で紡がれる歪さは主観に基づくのかも。


今回残念なのは、原作である遠藤周作の『王妃マリー・アントワネット』を私自身読めていないこと。エリザベートなどと同様日本では大人気で、ある種神聖視すらされていると言っても過言ではないマリー・アントワネットをリアリティをもって「ひとりの人」として描くことは、確かに覆しと捉えられよう。にしても、このミュージカルを、他でもない同じ日本人である遠藤周作のフィルターを基にして立ち上がったミュージカルを、今こうやって日本で見ることができる、ということには凄く意味があるのではないかと思ってしまいますね。近現代文学アレルギーの私が原作を読もうと思うほどに魅力的です。


MAの最初にフェルセンが一人説明を交えて歌い上げ、その途中に再現シーンの入る演出は、クンツェ&リーヴァイタッグの形の一つで、レディ・ベスと同じ。その安心感から入り込みやすかったけど、アスカム先生同様ちょっと長い。最後に歌う「マリー・アントワネット♪」は古川さん入りが走り気味に感じた。


「私たちは泣かない」の「泣かないで 泣くのは〜ないとき」の訳は一番大事なところで歌詞が詰まりすぎていて、トトトって感じになるの少しだけ残念だなって思うんだけど、「〜ない」という否定を幾度も繰り返す歌詞によって、逆に今はそうではないから前を向いて進もうという固い決意が感じられる。歌詞が余ってるから「ない」を「ぬ」にすればしっかりハマるのになって思ってしまったけれど、そこは「ない」にすることに訳のこだわりがありそう。


MA初演は全く知らないから楽曲がどう変わったのか凄く気になるのだけど、ともかく再演を見て思ったのは、残酷なこと、切ないことを歌っている歌ほど穏やかだったり明るい曲調だったりするのが私的に一番刺さるポイント。マリーの革命裁判のシーンの民衆が叫ぶ歌とか、明るくて、吐きたくなってしまうほどの気持ち悪さを覚えた。でも、あの当時市民たちは自らの正義の下で革命を推し進めていたわけだし、革命裁判において裁判にかけられる時点で被告人のマリーは罪人だったし、民衆にとっては憎き王政に制裁を加え自分たちの国を作るための大きな一歩を踏み出すときだったわけだから、希望を表現して当然なんだけど……それでも。


権利関係とか絶対難しいし無理なのなんて百も承知なんだけど、MAの「明日は幸せ」はオルゴールにして聴きたいと思うほどに特に美しい旋律の曲。MAのロゴ入りのミニオルゴールとか公演グッズにあったらほしかったなぁ( *ˊᵕˋ)



最後に、改めて当時の歴史についてウィキペディアを通してですが学んだことを踏まえて。


ルイ=シャルルのことを調べると、その不遇さに涙が出る。裁判のシーンで「全ての母親への冒涜です」と静かに断言するマリーの言葉に全てが込められてるのね。エリザベートのシシィや1789のマリーが我が子の死をきっかけに大きく変わって行くように、我が子との別れは彼女が外の世界に対し心を閉ざすきっかけとなる。

冒頭のマリー・アントワネットの登場シーンでは「私も母となり変わりました」と歌っているけど、その時点では王太子を生んだから王妃として皆に認められるはずという気持ち以上はなくて、母性が強く芽生えるのは絶対王政が崩落していく2幕になってから。子どもたちを守らなくてはならなくなってから。



MAは2回しか行けず、しかもどちらも公演期間の前半になってしまったので、少し残念です。


**ゆうふじ(*´ω`*)**