佐久間正英さんのご冥福を謹んでお祈りいたします。 | 歌謡曲(J-POP)のススメ

歌謡曲(J-POP)のススメ

音楽といっても数々あれど、歌謡曲ほど誰もが楽しめるジャンルは恐らく他にありません。このブログでは主に、歌謡曲最盛期と言われる70~80年代の作品紹介を通じて、その楽しさ・素晴らしさを少しでも伝えられればと思っています。リアルタイムで知らない若い世代の方もぜひ!

 1月16日、現役の音楽プロデューサーとして知られる佐久間正英さんがお亡くなりになりました昨年8月、すでに末期のスキルス性胃ガンであることを公表されていたので、こちらもそれなりの覚悟をしていたとは言うものの、61歳の若さであの世に旅立ってしまうというのはいくら何でも早すぎますよ・・・


 この年末年始にかけて、我々は、かしぶち哲郎さん、大瀧詠一さん、そして佐久間正英さんと、’70~’80年代からずっと我が国の歌謡ポップスシーンの屋台骨を支え続けた“才能”を立て続けに失ってしまいました
。現在48歳、’70~’80年代にかけて思春期を過ごした私は、人生のうちで感受性が最も鋭いとされる時期に、従来の“歌謡曲”に加えてフォーク、ニューミュージック、アイドルポップス、ロック、ニューウェイブ・・・と、それこそ様々なスタイルの流行音楽のシャワーをチャンポンにして浴びる恩恵にあずかった、非常に恵まれた世代だったように思います。そんな中で、上のお三方はそれぞれ新しい切り口から(広義の)歌謡曲の楽しさと素晴らしさを私に教えてくれたかけがえのない面々でした(でも、上の3人の“一般的知名度”という点では、大瀧センセが頭2つくらい抜けた結果になるのかも知れませんが・・・)。大瀧詠一センセは、私が高校生の頃(1982年くらい)に、歌謡曲の世界にズブズブとはまってゆく“最後の一押し”をぶちかましてくれたキーパーソンですし、かしぶち哲郎さんにしても、1986年に詞・曲・アレンジフルスペックで岡田有希子に提供した“幻”の超名曲シングル「花のイマージュ」一作で、私の中では“殿堂入り”扱いの人なのです。でも、3人の中で私が一番早い時期に出逢って大きな影響を受けたのは、実は佐久間正英さんでした

 私が彼を初めて知ったのは、忘れもしない中学3年の頃(1980年)、プラスチックスという5人組テクノポップバンドの一員としてでした(もっともレコードジャケットを通じての佐久間センセの第一印象は「トンガッてるイメージのグループの中に、一人だけつまんなそうに真顔で写ってる変な野郎がいるよ」という実にマヌケ&失礼なものでしたが・・・)。


 で、いかがです やっぱ少し変でしょ・・・


 親友(以下、“悪友”とします)の強いススメもあって、私はこのバンドの曲にすっかりハマってしまったのです。何しろ当時、2枚リリースされたオリジナルアルバム『ウェルカム・プラスティックス』、『オリガト・プラスティコ』の曲を、すべて“そら”で歌えましたからねぇ(←カラオケのない時代なのでなーんも役に立たねぇ)。彼らの曲は歌詞の大部分が英語と言うと何だかカッコ良く聴こえてしまうのですが、いま思えば中1かせいぜい中2レベルくらいの英語のオンパレード肝心の歌詞内容もナンセンス度120%の代物だったのでした・・・

 そしてまた、このプラスチックスというバンドが、何かと“型破り”な連中だったんですよね。まず「子供にもわかるシュールレアリスム」というバンドのコンセプトからして、意味があるんだかないんだか・・・。YMOの大ブレイクを契機に折からのテクノブームに乗って登場した連中(ヒカシューP-MODELなど)の中でも、ひときわ“ナンセンス”な印象の強いバンドでした。だけど一番常軌を逸していたのは、バンドの中心人物3人が音楽畑の人間ではなくて別に本業を持っていた(中西俊夫=イラストレーター、佐藤チカ=スタイリスト、立花ハジメ=デザイナー)、つまり“ズブの素人”集団だったという点でしょうね当時「四人囃子」のベーシストだった佐久間正英が、高田みづえの「硝子坂」などの作詞で知られる島武実を引っ張ってきてメジャーデビューとくれば、普通なら島-佐久間ラインで詞と曲を担当するのが自然ではないか・・・と思うのですが、彼らは敢えてそうしなかったのです(詞は中西か佐藤、曲は立花が担当というパターンが大部分)。

 佐久間センセは、この点に関して、後にこんな趣旨の発言をされています。「当時のロックバンドがみんなフュージョンやテクニックに走っている状況が嫌だった。それならこんなに下手クソでコードも知らない連中がやってもいいものができるんじゃないかと思った」・・・と。 なるほど。さすがというべきか、’80年代半ば以降から錚錚たるメンツを次々とプロデュースして世間にその名を轟かせた彼は、すでにこの頃からプロデューサー的な視点と姿勢を持っていて、現にプラスチックスでもそういう役割を担っていたということですね。ちなみに商業的な成功の確信のもとに、「ドラムとベースの代わりにリズム・ボックスとキーボードを使おう」というアイデアを出したのも佐久間センセだったそうです。このエピソードなんかも、彼がプロデューサー的な思考パターンを持っていたことの証左と言えましょう

 ああそれなのに、当時の私はその辺の予備知識をまったく持ち合わせていないアホたれでしたから、悪友と一緒に、「佐久間ってヤツは作詞作曲できないみたいだけど(←あまりに失礼すぎる発言。無知とはコワいものよのう・・・キーボード弾いてるからまだいいや。だけどこの島ってヤツは、リズム・ボックスのボタン押すだけで楽な役割だよな~なーんて暴言を吐きまくっておりました。天国の佐久間センセと、もしかするとこの記事を目にする可能性のある島センセ、今さらながら本当にどうもすいませんでした・・・m(_ _ )m

 で、これだけなら何のことはない、どこにでも転がっているような話なんですが、私にはもう一つ、佐久間センセとの不思議な因縁を感じる大きな“事件()”がありました。中学校で私の美術を3年間担当してくれた女の先生が、なんと“四人囃子”のキーボーディストだった坂下秀実さんの奥さんだったのです 悪友と一緒に学校でプラスチックの歌を歌いまくっていたのを耳にした先生がポロッと、「佐久間クン、ウチに遊びに来たことがあるのよ~」とつぶやいたのが、私にとって“嬉しい発覚”となったのでした

 デビュー前から「日本のピンク・フロイド」と称され、当時すでに伝説的なバンドとして有名だった四人囃子のアルバムを私が聴き始めるのに、さほど時間はかからなかったですね。四人囃子というのはメンバーチェンジを繰り返して、そのたびに音楽性を変えていったバンドなのですが、私が一番好きなアルバムはそれまでのフュージョン路線からポップ色が濃くなった『プリンテッド・ジェリー』(佐久間センセと坂下秀実さんの2人が所属していた時期にリリースされた作品)です先に引用した佐久間センセの発言からも推測できるように、四人囃子というバンドの方向性をフュージョン路線からポップ路線に“矯正”したのも、実は佐久間センセの仕掛けだったというわけ。やぁ、佐久間センセの思惑と私の好みがこんなにピッタリと合致するなんて、望外の喜びではないですかぁ

 せっかくなので2曲ほどYouTubeを貼り付けておきます。よろしかったらぜひ佐久間センセの初期仕事を聴いてみて下さい


私のお気に入りポップチューン!
「ハレソラ」 from 『Printed Jelly』(四人囃子)
作詞・作曲: 佐久間正英


しみじみと心に沁みる大作
「Violet Storm」 from 『Printed Jelly』(四人囃子)
作詞・作曲: 佐久間正英


 さて。時計の針を少し先に送りまして・・・。’80~’90年代にかけての佐久間センセは、アイドル歌謡の分野でいくつか重要な編曲の仕事を手掛けています
。私が独断と偏見で厳選してみたのがコレ()。

・「ミッドナイト・ステーション」(近藤真彦)
 (1983.1.20発売、オリコン最高位1位、売り上げ枚数39.1万枚)
・「まっ赤な女の子」(小泉今日子)
 (1983.5.5発売、オリコン最高位8位、売り上げ枚数22.7万枚)
・「夏のレッスン1」(原真祐美)
 (1984.9.21発売、オリコン最高位-(109)位、売り上げ枚数-万枚)
・「放課後はいつもパーティー」(東京パフォーマンスドール)
 (1992.6.21発売、オリコン最高位84位、売り上げ枚数0.5万枚)


 どの作品も、シンセの持つ“エキス”を存分に引き出したアレンジで、「さすがにシンセを隅々まで知り尽くしたセンセならではの仕事だよなぁ・・・」と唸らせられるものばかり。アレンジにシンセを使うのは’80年代前半あたりからはもはや常識でしたが、特に、「まっ赤な・・・」や「ミッドナイト・・・」あたりは、テクノ世代ならちょっと聴いただけですぐに佐久間センセの仕事であることがバレバレ(でも大好き)だったんですよね

 ‘80年代半ば以降の佐久間センセは、BOφWYブルーハーツJUDY AND MARYGLAYなどなど、何十組ものアーティストを次々とプロデュース・・・と、この辺のことはおそらく読者の皆さんの方が詳しいでしょうからここでは割愛したいと思います

 以上、佐久間センセが私の音楽遍歴にいかに重要な影響をもたらしたかに関する与太話はオシマイ(*゚ー゚)ゞ。どうもお粗末さまでした・・・m(_ _ )m。ええっと、ここまでかなりのおちゃらけモードで書いてしまったので、ラストはちゃんと締めくくりたいと思います

 昨年8月の末期ガン公表以来、私は佐久間センセのブログ日記をちょくちょく覗くようになりました。そこには、当然のことながら近況報告、つまり、“時すでに遅し・・・”といった感の否めない、闘病の生々しい様子が綴られていたのですが、日記の最後は必ず仕事(もちろんプロデュース関連)の話と前向きな言葉で締めくくられていて、私は何度も泣きそうになりました・・・。最後の最後まで“希望”という2文字を捨てることなく、いや、もしかすると心の中では諦めておられたかも知れないですが、そうしたネガティブな素振りや動揺を他人に見せることなく天寿を全うされた氏に、心から敬意を表します

 氏は、“裏方の鑑(かがみ)”を本当に地でいくような方だったですよねぇ(しみじみ)。そして地味ながらもそこはかとなくカッコいい ・・・そこにはまさに私の憧れる生き方がありました

 最後に、謹んで佐久間正英さんのご冥福をお祈りいたします