傾聴僧の集いに行って来ました。


 この場所はいつ来ても落ち着く。






 明智光秀の首塚


 首塚を管理しているのは、左端に見える和菓子屋さんです。以前、話をした時、光秀の縁者の子孫と言っていた。




 間違えて三条で降りなければならないのに、祇園四条で降りてしまい、そこから歩くことになったのだが、意外と早く着いてしまった。20分も掛からなかったと思う。急いで損した。

 時間があるので、平安神宮に向かって白川を歩きました。


 ここもお気に入りの場所。


 どういう訳か、他の人たちも早く着いていた。お馴染みの顔触れだが、初めて会う人は、近くでゲストハウスを経営している人、ラジオ局など小さなメディアを立ち上げてきた人の知り合いでした。

 いつも思うが、この場に集まる人たちは世間で起きていることの本質に気づくことができる人ばかり。洞察力に長けている。これが常識だ。と同じ方向に流されている人たちを客観的に見ている。この人たちも同じ苦労をしているようだった。

 世間の多くの人たちは、特定の人やメディアなどの情報を鵜呑みにしており、自分の頭で考えたりはしない。考えることを拒否していると言っても良い。自分の中で数多くの意味不明なルールを作って生きており、さながらロボットのようである。その作り上げた常識から逸脱した人がいた場合はヒステリックになって攻撃的な姿勢を見せる。論理的思考能力に欠けているので、それが間違っているとは思いもしない。感情的に動くだけ。動物的なのです。

 脳の奥深くにある大脳辺縁系と呼ばれる原始的な部位が優位に働いており、その周辺にある大脳新皮質はさほど働いていない。大脳辺縁系は本能を司る場所であり、大脳新皮質は人間的な脳の領域を指す。進化の過程で原始的な脳の周辺に人間たる所以の大脳新皮質が次々に作られていった。

 感情を抑制できない人たちは、原始的な脳の領域が活性化しており、その増幅させた感情を大脳新皮質を働かせて抑えることができない状態にある。感情のコントロールに欠けているのです。論理的思考能力に欠けるのも、これが理由。脳レベルで捉えると理に適っています。

 指示を待つことしかできず、指示されても不満を漏らし、時には感情的になる。考えることができないので代替案を出すこともできない。

 メディアなどの情報を鵜呑みにしては、ひたすら流されるのは当然なのです。頭の中に知識が入っていないので考えることなんて出来るはずがない。考える為の材料が頭の中に入っていないのです。

 この手の人たちが世の中に溢れている。8割方が、そうなのだろうと思う。この大多数の人たちに理性的な人たちが加害行為を受け、そして疲弊するといったことが社会で起きている。しかし、だからといって、この手の人たちに高圧的に接してしまっては、社内にいる悪質な連中と同レベルになってしまう。

 傾聴僧の人たちの考え方の根幹として、どちらが上とか下とか区分しないところにある。「相手は〜だから」といった決め付けもしない。仏教ではそう捉えるからです。唯識にヒントがありそうなので、もう一度読み直してみようかと思う。

 疑問に思うのは、本当に良い人間にならなくてはならないのか。ということです。「何故、人は生きるのか」と考えた時、色々と綺麗事を述べることはできるが、実際は子孫を残すことにあるはずです。それだと犬畜生と変わらないから、そこから抜け出すべきではないかと考える人たちが現れたのは理解はできる。しかし現実社会に目を向けると、どう冷静に見ても犬畜生の類の方が生き残っているし、伸び伸びと生活することができている。優しい人間は被害を受けることの方が多い。心優しくても被害を受けずに済んでいる人の大半は金持ちだったりと、犬畜生の類いと接しなくても良い環境にいる人たちです。もちろん恵まれない環境にいて被害を受けずにいる人も存在するが、それはレアケースであるはず。100%は有り得ないので、運の良い人もいるに決まっている。

 仮に他人に優しく振る舞える人間になったとしても、相手はそうではないのなら、結局は被害を受けるということになる。優しく振る舞ったら、相手も優しく振る舞うようになる。という人もいるが、実際はそうはなっていない。

 こうなってくると、自身の心身を向上させたところで何の意味もないのではないかと思えてくる。

 環境を変えるしかないのかもしれない。悪縁がはたらく場所に身を置いているから、上手く行かないのであれば場所を変えたら解決する。

 傾聴僧の集いには、しばらく参加する必要がありそうです。