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数年ぶりに来た京都駅のミスタードーナツ。京都に来た頃はお気に入りのカフェをまだ見つけていなかったので、ここに来ることが多かった。
いつ来ても京都駅らしからぬ近代的な駅に感じてしまいます。評判もさほど良くはない。小京都の金沢駅もこのような感じだった。
今回の目的は新撰組の屯所跡巡りです。新撰組の屯所は八木邸が有名ですが、そこに至るまで何箇所か移り変わっています。
・第一の屯所が壬生(前川邸と八木邸)で約2年間
・第二の屯所が西本願寺(北集会所と太鼓楼)で約2年3ヶ月
・第三の屯所が不動堂村(西九条村)で約半年間
この第三の屯所が曲者で、最近まで詳細が分かっておらず、候補地が5箇所もあった。西本願寺が1番長いとは意外です。
新撰組最後の洛中屋敷跡 屯所候補その1
現在、ハトヤ瑞鳳閣。幕末期の溝が見つかったことで、第三の屯所跡地ではないかと言われていた。
明王院不動堂
ここは屯所跡地候補ではありません。不動堂村の由来となった堂です。当時のままなので、幕末の志士たちも来たことがあるはず。
真向かいのビルの清掃をしている人が驚くほど高圧的だったので驚いてしまった。そんなに大した職業ではないだろうに。その道何年のベテランか知らないが、このような人を見ると憐れみを感じてしまう。本来の情けない自分を覆い隠す為に必死になって偉そうにしている。自分に自信があれば堂々としていられるものだが、そうではない人は演じなければならない。哀れなものです。
不動堂町屯所 候補その2
資生堂が建っている付近です。幕末には不動堂町となっており、不動堂村という名称ではなかった。明治期の本に「第三の屯所は不動堂村にある」と書いてあるので、不動堂村の名称が定着しているが、歴史研究書ではないので信憑性は低い。
新説で急浮上した屯所候補地。現在はタキイ種苗(株) 候補その3
修練場としても利用したかったようだが、計画が頓挫して屯所にはならなかった。
元京都市立梅巡中学校 候補その4
廃校になったようです。西本願寺の資料に「西九条村へ転居」と記載してあるのが発見されて、急浮上した候補地。
京都リーガロイヤルホテル 候補その5
ここが第三の屯所という事で決定したようです。歴史家が書肆商(しょししょう)から場所を聞き取り、それを霊山博物館の館長の父親か誰かが又聞きしている。文献上ではなく聞き込み調査によるものだったので信憑性が疑われていたが、その後、詳細に書かれた文献が発見されて確定した。書肆商とは本を作る仕事です。その為、屯所などの場所に詳しかった。
元京セラの社長が「ステーキで1番美味しいところはここだ」と話していたことがある。店に行く時は予め店主に伝えるようで、その時だけ特別に良い肉を用意するらしい。だから一般人はその美味しい肉を食べることはできない。祇園にも美味しい肉を提供する店はあるが、料金を考えるとこちらの方が断然上なのだとか。
近藤勇の妾宅跡は安寧小学校の場所とされているが、学校は移転しているので本来の場所は道の向こう側になります。
胡蝶蘭専門店の場所が本来の妾宅跡。
八番組頭の原田左之助の寓居跡はガソリンスタンドに…。石碑すらなかった。と思う。よく漫画や映画で十番隊組長などと呼ばれることがあるが、文献上は八番までしか確認されていない。隊長という呼ばれ方もしておらず、正確には組頭です。
興正寺
禁門の変で敗走した金剛隊6人が逃げ込んだ場所です。
飛雲閣が見えます。長らく聚楽第や京都新城の遺構が使われたと言い伝えられていましたが、調査により、江戸時代に建てられたものだと分かりました。
西本願寺の銀杏
「御影堂前の大イチョウは、江戸時代中期、1788年の「天明の大火」の際に水を吹いて御影堂を守ったということから「水吹き銀杏」の別名が付けられている」
通常は縦に長く育つが、ここの銀杏は横に伸びています。
西本願寺の廊下の埋め木
損傷した箇所の修理で遊び心が生かされている。
ハート
魚と瓢箪
鳥と飛行機?
亀
グラスだろうか。
勾玉
西本願寺の北集会所跡
200畳もあったらしい。病人を隔離することなく畳に寝かせていたので、170-180人の隊士のうち1/3が病人となり、ざこ寝をしていたらしい。北集会所は姫路の亀山本徳寺に移築されています。
太鼓楼
ここも屯所として使われた。現在は膨大な古文書が保管されてあるので、公開されることはない場所となっています。
阿弥陀堂
当時から現存する建物。土方歳三が病人が多いので阿弥陀堂の畳を50畳貸してくれと言った逸話が残されている。
太鼓楼は近くまでなら行くことができます。
永倉新八の妾宅跡
骸骨堂とは、また随分とインパクトのある店名。
天満屋騒動跡
中井正五郎避難の地として石碑が立てられてある。坂本龍馬が暗殺された腹いせに陸奥宗光ら16人が天満屋を襲撃した際、中井正五郎が殺害された。
北小路の変が起きた場所
天満屋騒動が起きた際、応援部隊が駆けつけたが、味方同士だと分からずに同士討ちをしてしまい、紀州藩士の多くを逃してしまった。
先ほどの道と、こちら側の道から来た応援部隊が交差点で不運にも鉢合わせてしまった。
油小路の変が起きた場所
写真を撮り忘れたのでGoogleマップを利用して撮影しました。
伊藤甲子太郎が暗殺され、遺体が放置された場所です。それをきっかけに御陵衛士と新撰組が斬り合いとなった。新撰組は永倉新八や原田左之助ら17-36人。文献によって異なります。御陵衛士はたったの7人。そのうちの藤堂平助は近藤勇と仲が良かったので、近藤勇が永倉新八と原田左之助に「藤堂平助だけは逃せ」と言ったらしい。しかし他の新撰組はそのことを知らないので、逃げようとする藤堂平助を追いかけて殺害してしまった。
油屋さん。当時からある建物なのか分からないが、当時は油を売る店が存在した。
本光寺
伊東甲子太郎はこの地で絶命している。
南無妙法蓮華経の題目石
伊東甲子太郎がこの石にもたれかかって絶命したとされる。当時は門が内側にあったので入ることができたのです。
幕末巡りの後、駅までの帰り道で通りかかったので写真に収めました。旧高瀬川の跡地です。川は土砂で埋められており、見るも無惨な姿になっている。
この橋はいつまで残されるのだろうか。
暗渠(あんきょ)ではなく、もう下には水は流れていないと思います。
次から次へと人が繋がり、中々充実した日々を送っています。田歌という場所に縁ができそうです。