小説を書いている。と言ったら、「読みたい」と言ってくれる人が意外といることに驚いた。出来るだけ早く修正しなければ。



 このタイミングでこの本に出会うとは思わなかった。今の私に必要な本でした。


「都男追憶」中原都男著


 中原都男(くにお)は霊明神社の5世神主、村上市次郎の三男にあたります。

 こちらも神主さんにお借りしました。


 この日は行くつもりはなかったが、神主さんのSNSの書き込みを見て、これは行けという意味なのかと思ったので急いで神社に向かいました。

 小雨がぱらついている。


「都男追憶」の原本を手渡されましたが、さすがに原本を持って帰るのは躊躇したので、コピーしたものをお借りしました。貸してくれるとはありがたい。


 富岡鉄斎が書いたものらしい。鑑定はしてもらってはいないようだが、落款から判断する限り本物だろうということでした。意味は説明を受けましたが忘れました。



 この日は「縁むすひ」として、神社が開放されており、日吉大社の神主さんの妻と会社経営者がいました。最近、日吉大社とやけに縁がある。ここでも繋がるとは縁というのは面白いものです。

 共通の知り合いである元巫女さんの話を聞いて驚いてしまった。何らかの被害に遭ったのだろうと思っていたが、どうやら加害者として扱われているようでした。9割以上はそのように認識しているのではないか。「被害を受けたと嘘をついている」と多くの人が認識している。そのような人とは思えないのだが……。
 男の方は「客観的証拠がある」として様々な写真を見せて回って、身の潔白を証明しているようだが、性犯罪をしていないという客観的証拠なんて本当にあるのだろうか。LINEの遣り取りや写真を見せて、「仲良くしていた証拠がある。だからあいつは嘘をついている」と主張しても、それは何の証明にもなっていない。それでは伊東純也と同じになってしまう。

 女性と話をしたら、「しどろもどろだった」とか「辻褄が合わなかった」として、「虚言癖があるかもしれない」と話す人もいたが、元から論理的に話をするタイプの人ではないので、これらを踏まえて嘘をついていると断言することもできない。それに「虚言癖がある」という言葉は、この問題が生じて以降に言われ始めたものであり、今まで彼女のことを虚言癖があると話している人は誰もいなかった。交友関係が広く、その多くの人が彼女に好感を持って接していたくらいです。

 しかし軽い嘘をついてしまって、後に引けなくなった可能性はある。私としては、その場にいたわけでは無く、また第三者であるので明確に真偽を判定することはできない。中立の立ち位置に立っていようと思っています。

 ちょうど阿闍梨が絡んだ性犯罪が起きた時期だったので、話が一気に広まってしまったという経緯がある。恐らく広めたのは本人ではない。広めた人にも問題があるのではないか。

 

都男追憶」の話に入ります。
 中原都男は村上家に生まれますが、羽富家に引き取られます。本人は口減らしだったと回想している。しかし本人は神道の家に生まれたことも、引き取られたことも、お寺の嫁と結婚したことも「全て運命だった」としている。


 明治〜大正〜昭和に生きた人の話なので、当時の京都の風習が書いてあり、その点でも楽しめる内容でした。


ガタロー
「そんなことをするとガタローが来る」と当時の人たちが言っていたそうです。カワウソの化け物の置き物が門などに置かれていた。魔除けの意味があったのだろうか。場所によっては河童として扱われていて、「川に近づいたら、ガタローに引きづり込まれるよ」と言って、子どもたちを水から守っていた。

だまり講

「大きな枕に頭をつけて行者が2人で肩を掴んで、「解ったか、解ったか」と何度も枕に頭を叩きつける。「解った」というと、今度は日輪様を拝む行事が始まる。灼熱の太陽を眺める行。月も眺めた」


 どうやら、躾をする場所があったようです。都男がこのような目に遭ったのは、小学生の時に「自分は一体何処から来たのか、今見ている世界は人が同じ様に見ているのか、或は自分だけが見ていて、私に関る人々は実際にはいないのではなかろうか」と考えていたからです。暴力によって矯正する方法で問題はありますが、これは今でも学校などで行われていることでもある。



「旅順(中国の地名らしい)が落ちた時(陥落か?)は桃色の号外が飛び交っていた。愛国心を示さなければならないので軍歌を歌った。活動写真小屋、蓄音機の登場。一銭銅貨を入れると、1分間ほど音楽が聴こえて来る。活動写真小屋に関しては「今のテレビっ子と変わらない。無駄であった」と回想している。ジゴマとか新馬鹿大将等で活弁が暗がりの中でカンテラを燈して客本(たぶん脚本のこと)を読むといったものだった。やがて活弁全盛期がくる」


 競馬場でのメリーゴーランド、出店が立ち並んで賑やかだった話も書いてありました。


 都男は体が弱かったので、草津まで汽車で行き、そこから人力車に乗って治療に専念した話も書いてある。


 京極での化け物屋敷の話。

「酒呑童子のミイラ、ロウソク首の娘が、赤い腰のまま一銭か5厘を投げ込まれたプールに飛び込んで拾い上げてくる。それが賃金だった」


 娘のクビがグングン延びていったり、美人が黒い箱の上に立つと全身が白骨になるものに関しては、叔母が「これは仕掛けだ」と都男に話しており、当時の人たちも分かっていて見ていたそうです。

 一旦入ると鏡に囲まれて出られなくなる「鏡抜け」では、都男は誰かに助けてもらっている。
 都男は新派劇の小泉というスターに可愛がってもらっていたようで、牛肉を出された時には驚いて食べなかった。上方ではないと当時は食べることができなかったので、都男は食べなかったのだが、これについては後悔していた。貧乏生活をしていたので、それが何か都男は分からなかったのです。

「一般の主婦は栄養に関しての知識がなく皆青白い顔をしていたので、行燈の燈影に入るとよく似合った」と回想している。
 石油が入るようになってからは行燈がランプとなり、やがて電燈となった。牛肉も始終食べるようになっている。

 小学校を卒業する頃、明治天皇が崩御し大正へと変わる。小学校は京極に近い場所から師範学校に通っていたが、途中からは父の計らいで霊山から通う事になった。しかし祖父は酒に溺れて日本刀を持ち出して暴れ出す人間だったので、決して環境が良くなかったわけではない。

 冬には寒稽古があり、都男は「こんなことをして何になるのでしょうか」と父親に聞いている。当時でも無意味なことを無意味だと感じることができた人がいたようです。多くの人は意味も分からずに言われたことを黙って行うが、都男はそうではなかった。

 寒稽古での利点は、「自分より身体の大きな人物を投げ飛ばしたこと。知恵を働かせたら勝てることを知ったこと」です。

 この頃にオルガンに触れる機会があり、音楽に関して自信を深めていきます。


第一次世界大戦の頃の話

 世間では景気が良くなっており、大戦後は成金も現れて大変な好景気となった。

 スペイン風邪の流行は独逸軍の毒ガスが原因と思われていた。都男も風邪に罹り、九分望みがないと言われたが回復している。この時、都男は阿弥陀教と叔母の信心によるものと回想している。


今井正視という人

 英和辞典を全部暗記する人で、「暗記したものは茶漬に入れて呑んでいた」「図書館の本を八部呑んだ」といったエピソードがある。しかし、これが祟って胃腸を壊し、ノイローゼにもなり、卒業が半年遅れた。


 都男は音楽にのめり込み、思っても見なかったようだが賞を受け取っている。これで音楽とは切っても切れない間柄となる。

新道小学校時代
学校の担任に就任
「霊山に子どもたちが急坂を上って迎えに来る」という記述があった。現在は坂の途中からは階段になっているが、当時は坂だった。と聞かされていた。どうやら本当だったようです。
 霊山では舞妓相手に国語とソロバンの授業を開いている。
 体操の主任から国語の主任になった時に「赤い鳥」が出版される。これは低級で愚かな政府が主導する唱歌や説話に対抗して、子供の純性を育むために話や歌を創作し、世に広める一大運動を宣言した本です。
 芥川龍之介、有島郁郎、泉鏡花、北原白秋などが創刊号で賛同した。かなり有名な本です。
 ある日、視学というのが来て、「法律に外れている」と文句を言われた。校長もあまり良い顔をしなかった。学校で男女が手を組んで踊るホークダンスをした時は校長に止められてもいる。しかし都男は全教員を霊山に招待し、酒を振る舞って蓄音機をかけ、ダンスを教えたことで認めてもらった。

 解剖学の話では、塩尻主任の失敗談が面白かった。ネコにクロロホルムを嗅がせて、生徒の前で解剖しようと試みたが、全く麻酔がかからず、ネコにホッペタを掻きむしられて逃げられている。
 都男は二十三歳の時にピアノを買ってもらい、初めてピアノを習います。

大正十二年、関東大震災
「成金がすっかり没落。日本の金が一夜の中に灰となった」

 父を回想し、「家の犠牲の見本の様な生涯だった」と記す。

第一高等学校時代
小学生一、二年を担当
 そこで出会った先生を紹介していた。のちにデザイナーになる図画の先生は格式張っていなかったので、生徒から人気があった。

 裁縫の先生は夫に浮気され、性病を移された。足が曲がってからは離婚され、子供からも引き離され、晩年は養老院で1人淋しく亡くなった。この人を都男は「古い日本を代表し、開放されない日本の女性の惨めな見本の様な人」と記す。

 この考え方がこの時代に出来ていたことが驚きです。かなり時代の先を進んでいる。

 欧州からダンディの直弟子が京都に亡命してきた時、弟子入りする。ここでヨーロッパの音を取り入れる事になり、音楽学校への道が開かれていきます。

東京音楽学校時代
上野へと旅立つ。
 ここでも自然と級代表(学級長)となる。「いつ迄も人の世話をやく様な運命から逃れられなかった」と書いてあった。のちに村上家には御所南小学校で有名になった人も現れるので、これは村上家の宿命なのかもしれない。
 三年の卒業の年にモーツァルトのレクイエムを歌った時、大正天皇が亡くなったエピソードが語られる。

「欧州では、この曲を歌うと「大統領や皇帝が亡くなる」という言い伝えがあったので、一同が驚いた」

 都男は山口県に就職することが決まる。この時、母が失望し、都男が慰めています。母は都男が京都に帰ってくるものだと思っていたのでしょう。

山口師範時代
 学校で火事が起きる。堅物とおもわれていた教員の机の中から妻君内緒の恋文が出て、一同が驚く。

 校長から「娘をもらってくれ」と言われて結婚。京都に戻ることになった。

「これがなかったら、ずっと山口県に住んでいたかもしれない」と書いてあった。もし、そうだったのなら、都男は京都の音楽の発展に貢献しなかったことになる。人生とは運が大きく作用するのだと思わされるエピソードです。

 唐突に話がここで終わり、昭和四十四年十月の日記へと変わる。
「京都音楽史の原稿を届けた」と記述してあるので、大きな事を成し遂げた後の日記です。

 都男は「生きるか死ぬかの瀬戸際を、開腹手術によって体験したせいか、物事の見方や考え方が以前とは少しずつ変わってきた」為、死について深く洞察するようになる。

「生死の問題は人間にとって極限の問題であり、人生いかに生きるべきやという永遠の課題の解決につながる大事である。経済といい文化といい結局は、人生の生き方なのである。私は、人間の遠隔的究極目的である神性へ参入、霊性への融合へと、人間をつれてゆく道として神性を内部生命力とする超高次元に属する音楽芸術の徳力の認識とそれに基く教育力の展開に埃つ(まつ)。期待することになる」


 音楽をただ楽しいものとはしていない。音楽を学ぶことは、人間力の向上を意味する。

加藤東大総長の言葉が記されていた。
「大学というところ、大学人というものは自説を主張し合い、他説を批判し合って、会議を開いても合致することはない。これが、そもそも大学というものであって、多数意見が常にぶつかり合って果てぬということに、あまり心を労してはならない。

今、最も必要なことは寛容さということである」



幼児教育について
オスカー・ワイルド
「芸術は人生に優先し、人生は芸術を模倣する」


マタイ伝の最初のくだり
「初めに言葉ありき。言葉は神なり言々」

 都男は「私流にいえば、幼児にはよいリズム・メロディを与えることで、耳はあくまで他方から影響をうけるから、父母たちは幼児の環境をととのえることが至上命法である」
 これは親に暴言を吐かれて育った人を例に出して説明していた。

「お前には何の取り柄もない。どろぼうにしかなれぬ」と言いつづけられた人が盗みを働いた話です。その人は捕まった時、「東京芝で、日本一の大どろぼうになってやろうと思った」と語っている。


 これを踏まえて都男は

「戦後の教育界のかたよった傾向と実践とに対して、素直に反省し直ちに教育界の全面的海角を実施しなければ、日本はほろびる」


「要するに、とめどもない世相の荒廃をみるにつけて、人類の遠隔的窮局目標である霊性そのものである。新しい人類の理想像 ー神々そのものー をその幼児期において潜在意識の中に造形することを、教育の根本としなければならぬ」


「真の教育は、所詮、人格と人格の接触によって行わなければならない」


「教育の根本は、先づ「児童に人格の自由をみとめる」ことである。「児童に行為の選択の自由を与える」のである」

と語っている。


 音楽によって優れた人格を形成することを試みるが、その前に環境を整えなければならない。としています。


 
オスカー・ワイルド
「ものは言葉が前で形があとに現れる。表現が前であって、人生がそれに伴う」

「教育法の要諦は、人間の中に宿っているところの神なるもの、仏なるものを引出すところにある。その方法は「言葉の力に依る」言葉の力によって人間に内在しているところの無限の力を引出す。言葉とは何であるか。言葉とは振動である。波動である。目には見えない五官の認識には「無い」ところの或物が振動を起して、五官的に現象に「有ル」と現れてくるのである。この振動のことをコトバという。一切のものは振動によってつくられる」


 都男は恐らく唯識にも触れている。唯識を教育や音楽、そして振動に絡めて解釈するとは面白い。霊明神社の神主さんは、ここに記された「振動」を「感動」と解釈していたが、これについては私も同意見です。一部分だけ読むと物理学の超ひも理論にも言及しているのかと思ったものですが、全体を通して読むと、「心を震わすもの」として使われているのだと解釈するのが自然だろうと思います。

「未だに、人のことが気になったり、人の幸福がねたましかったり、人にゆとりを持って接することができなかったりしては、何のために年輪を重ねたのか分からなくなる。

これだけは誰にも負けぬものだとかをもっている人は、徒らに人様のことを羨望したり、嫉妬したりしないでゆけるものである」


 私は特に何かを持っているわけではないが、最近は学歴や資格などの肩書き、金を持っているかどうかなどに関して、何の関心も示さなくなった。それを持っていると聞かされても「それがどうかしたのか」と思うようになってきている。最近というより、随分前からそうなのだが。

 過去の出来事や散歩をして感じたことについて

「このありがたさを心一杯に味わえるのは、病後保養生活のおかげである。

病前の生活には、もう戻れそうにない。こんな生活を隠遁生活というのであれば、隠者こそ最高の生活者である」


 この言葉が出てくるとは中原都男という人物は大した人だと思えます。すべての出来事を肯定的に捉えている。これは心理学でいうところのリフレーミングというものです。

 もっと注目されるべき人物だと思う。非常に読み応えのある本でした。