前回の続きから。八坂神社の龍穴でダメージを喰らった後、崇仁(すうじん)地区を巡りました。この辺りはあまり来たことがない。京都駅から東福寺方面や三十三間堂に行く時に歩いた程度で、当時は被差別地域とは知らずに歩いていました。ボロボロの建物が多かったのは覚えています。


柳原銀行記念資料館

 崇仁地区という被差別地域に建てられた銀行。発見された時は研究者たちが驚いたとか。当時は塗装が剥がれて木が剥き出しになっていた。移築後に元の色に塗り替えられている。

 この地区の住民に、お金を貸す人がいないから自分たちで設立をしたという見方もできるが、借りるまでもなく、銀行を設立するほどの資金力がこの人たちにはあった。という見方もできる。穢多と呼ばれていた人たちは特権を与えられていたので、莫大な利益を上げることができており、大名にお金を貸すこともできるほどだった。学校で学んだ被差別地域の話は事実とは大きく異なる。非人と呼ばれた人たちは差別的な扱いを受けたのは事実だが、現代で言うところのホームレスに近い存在。自然発生的に各地から集まってきたわけで、国が意図的に士農工商の下に位置付けたわけではない。このピラミッド型の教え方自体がそもそも間違っている。現代ではこの教え方を学校ではやっていないようです。



旧高瀬川

 開発の時に埋められる予定だったが、地域住民の意向を反映して残すことになった。川というより現在は側溝と言った感じです。


 以前、使われていた橋が見えます。


 川の向こう側に橋の名残りが。柱が見えます。


崇仁第二浴場

 崇仁地区に建てられた浴場。まだ現役と聞いたが、ネットで調べたら閉鎖となっていた。どちらが正しいのか。一般の人も入ることができます。知らずに来る人も多いようです。さすがに歴史を知る京都の人は来ないと思います。

 ここから高架下を通って在日の人が集められた地区へと向かいます。同和政策をするに当たって、どこからか集まってきた在日の人にまで保証するのは、おかしいだろう。ということで引越ししてもらった歴史がある。引越の代金など補償はしたようです。


 この辺りには当時から残っているお好み焼き屋がある。YouTuberが何も知らずに被差別の集落と一括りにして紹介していた動画を観たが、厳密にいうと異なります。


 崇仁地区の名の由来は平安京にまで遡る。この地区を崇仁坊と呼んでいたのです。銭座とは銅の硬貨を作っていた場所を指します。その為、当時は水質汚染が酷かったようです。


 かつて役所に改良事業部と名付けられた部署があった。崇仁地区を開発する部署です。看板だけが残されている。


 この道路がかつてのメイン道路。左に広い道路が造られました。現在、こちらの道は歩行者が通る程度です。


 崇仁地区の住民は財力があったので、一つの地区に幾つもの寺院を建設しました。浄土真宗の信仰が厚かったのです。東本願寺で火災が起きた時は、命を懸けて総出で消火に当たったほどです。


 正面の道路の角に建っているのは交番。その場所辺りに柳原銀行があった。


 真ん中の写真は昭和に写されたものです。この先はドンツキであり道がなかった。写真には「ドンツキ」と名付けられた靴屋が写っている。その靴屋の隣にあるのが柳原銀行です。

 以前は靴屋やジャンパーなどの看板が目に付きましたが、今は見かけなくなりました。


 分かりづらいが、お好み焼き屋の看板辺りの地面が少し盛り上がっています。ここは高瀬川が流れていた所です。橋ごと埋められたので盛り上がっている。


 新高瀬川として開発されたので、川の流れが変わってしまった。


 旧高瀬川の上を歩きます。右のフェンスは集落のバラックがあった所です。京都市が団地やアパートを建てたので、そこに引っ越すことになった。ホームレス対策なのか、入ることができないようにされている。


 ここにも橋の名残りが。この辺りは内浜と呼ばれていたので、内浜橋という名称でした。内浜は住民から見下げられていたからか、この橋の名称がいつの間にか変えられていた。車の後部が持ち上げられているのは、あの橋の部分も地面が盛り上がっているからです。


 このフェンスまでが旧六条村。実際は六条は少し北側に位置するが、崇仁地区に引っ越してからも六条村の名称を使っていたので、引越し先の場所も六条村と呼ばれるようになった。


 この六条村の堺は御土居の上でもある。その為、発掘した時に様々なものが発見されたとか。


 縦のオレンジのラインが旧高瀬川。内浜まで高瀬川を通って荷物を運んでいました。内浜より北側の高瀬川が無くなって以降も南側とは繋がっていたので、しばらく使われていたようです。

 斜めに走っている茶色のラインが1641年までの御土居の跡。徳川の時代に位置が変えられました。

 被差別地域に住んでいた人たちは崇仁地区に来る前は御土居と鴨川に挟まれた地区に住んでいました。下の地図の紫色に塗られた部分です。


 内浜診療所が見えます。内浜の名称が残っているのは、この診療所だけではないか。


 解放運動が盛んだった頃に使われていたらしい。ネットで調べても検索に引っ掛からなかった。



 先ほどまでは向こう側に見える空き地と団地の間を歩いていました。ぐるっと回って引き返します。この辺りにはバラックはもうないようです。みんな団地に引っ越してしまった。


 開発が進まないのは、まだ住んでいる人たちがいるからです。被差別地域の住民の中にも勝ち組が存在します。先祖代々同じ場所に住んでおり、引越す理由がないからですが、年々その数は減っています。

 最盛期は大きな蔵を幾つも建てて宝を保管していた。被差別地域の中でも穢多と呼ばれていた人の中には裕福な人がいたのです。急速に貧しくなった理由は定かではありません。松方デフレで不況に陥ったからとか、賎民廃止令が下って特権が奪われたからとも言われますが、これでは説明がつかない。松方デフレと賎民廃止令以降、餓死者が相次いだ記録もあるが、貧しくなってはいないという記録もある。柳原銀行の設立は、その二つの出来事の後の話です。被差別地域に住む人たちが出資していますが、資本金は驚くことに現在の価値に換算すると、5億円にもなる。年収1億円超えも数名、1千万超えは数十人も存在した。これは京都だけではなく、他の被差別地域でも同じことが言えます。餓死は出たのかもしれないが、非人と呼ばれた人たちや、流れ込んで来た一般人なのだと思います。

 特権を奪われたと言っても、他の人たちがやりたがらない仕事を請け負ってきており、急に他の人たちが模倣してやれるものではない。その前にやりたいとも思わないでしょう。その意味では特権は続いていたと言えそうです。

 被差別地域の人たちは様々な仕事に従事していたが、経済が激変した時に対応できた職業とできなかった職業があり、対応できた人たちがボロ儲けしたと見るのが自然かと思います。


 左は寺院。一体、幾つあるのだろうか。


 これは新高瀬川


 ここは開発途中で計画が頓挫した場所です。公園として使われる予定だったとか。被差別地域の住民が祠を建てて拝んでいたらしいが、「開発をすれば祟られる」と言われて、開発を止めたのだそうです。知られていない禁足地です。フェンスで囲まれているので入ることはできません。今も土中に祠があるらしい。


 いつか歩いた五条。古い建物が多かったので、当時は茶屋か何かかと思っていたが、遊郭の建物でした。


 橋本のように一般住宅が増えてきており、遊郭の建物の数は減ってきている。


 意外にも現在も使われている建物が多かった。橋本より多いのではないか。





 ゲストハウスだろうか。


 思っていたより残っている。


 安楽坊が処刑された場所に到着。後鳥羽上皇に仕えていた女官、松虫と鈴虫が上皇の留守中に安楽坊が催した礼賛念仏会に出席。事もあろうに出家までしてしまった。それが原因で上皇が激怒したことで起きた事件です。この後、法然と親鸞が流罪の刑に処されます。


 右端に正面橋が見えます。何故、正面なのかと言うと、正面に方広寺の巨大仏像(盧舎那仏)があったからです。東大寺の仏像より大きいものでした。


 正面橋を渡ります。何故、鐘楼が...。


 徳川秀忠の頃、キリシタンの弾圧が激しくなり、捉えられた信者52名が串刺しにされ、火炙りの刑に処せられた場所です。処刑を担ったのが被差別地域の人たちなので、石碑を立てる際、この地に石碑を立てて良いものかと思ったそうですが、いともあっさり承諾されたという経緯がある。現代までわだかまりが続いているわけではありません。

 キリシタンたちは酷なことに仏像の方角に向かって磔にされ、処刑されている。仏像は既に焼失していましたが、これは精神に堪えたでしょう。


 今はこの地で処刑が行われたことなんて想像すらできないほど長閑です。


 色々と知らなかったことが多く、中身の濃い1日となりました。休日は過密スケジュール続きになっている。全然、休日になっていない。次の休日は幕末巡りをしてきます。