前回の続きから。


 堅田に来たのは数年ぶり。浮御堂は覚えているけど、他はよく思い出せない。本福寺は初めて。いつもは蓮如の直筆の品が置いてあるらしいのだが、どこかで展示した後、戻ってきていないようです。研究か修理でもしているのでしょう。


本福寺

「南北朝時代、善道という神職が創建したと伝わる。神社の宮司がお寺を創建するという神仏習合の寺院だった」


 当時の蓮如は比叡山延暦寺から圧力をかけられ不遇の時期を過ごしていました。京都を追われて滋賀県守山市金森へ行った後、この本福寺に身を寄せています。ここを拠点とし、その後、北陸へと信仰を広めていったようで、仏教徒にとっては重要な場所となっています。

 因みに十一代の住職である明式(みょうしき)は松尾芭蕉の弟子で、俳号は千那(せんな)です。千那は松尾芭蕉を初めて大津に招いた人物でもある。


神田神社

「天暦三年京都賀茂御祖神社の分霊を奉祀して、堅田西ノ切の氏神とした。此の地は十一世紀後半より下鴨社の御厨として栄えた」


 何年か前に途絶えていた祭りが復活していました。下鴨神社へ魚を献上する祭りですが、現在は途中からバスを利用しているそうです。

 訪れたのは4/7なので、もうここまで咲いてはいないと思います。


 神田神社の由来で説明した西ノ切の氏神の「西ノ切」とは船を止める場所を指します。当時は法律などなかったので、住民は権力者に付いて守ってもらわなければならなかった。この辺りの住民は下鴨神社に守ってもらっていました。そうすることで漁業権を獲得し、関所を設けるなどをして金儲けをしていた。すぐ近くの地域住民は上賀茂神社に守ってもらっていたようです。これにより琵琶湖のどこでも漁業をすることができたわけですが、献上する金や物がない地域住民は守ってもらえなかった。小範囲のみの漁業権しか獲得することができませんでした。


 ここが西ノ切。石垣が積まれてある部分まで、当時は船で行くことができた。


 西ノ切を歩いていきます。近隣住民が花見をしていた。良い生活をしているように見えるが、夏はユスリカが大量発生するので、それが難点となる。


 東ノ切に到着。


 航空写真です。琵琶湖から入ってきた船は横長の東ノ切に止めていました。更に真っ直ぐ進んだ先には伊豆神社がある。東ノ切と参道は繋がっていたことになります。


 奥に伊豆神社が見えます。


 浮御堂へ


 外国人の姿がチラホラあった。どうやら堅田駅からバスに乗って来ているらしい。



 琵琶湖大橋が見えます。


 反対側は大津京方面。イオン大津京が閉鎖したとか。代わりにブランチ大津京という洒落たショッピングモールが建てられたようです。


 本尊は聖観音菩薩だが、浮御堂に安置されているのは阿弥陀如来像だったと思います。阿弥陀如来は毎日、湖を眺めています。


 奥に見える三角の山は、この辺りでは神聖な山とされる三上山です。通称、近江富士。


 当時、堅田を支配していた末裔が同じ場所に住み続けている。


 浮御堂は室戸台風で一度崩壊したと聞きました。


 琵琶湖近くに住んでいた時、猛禽類がその辺りに飛び回っていたことを思い出す。ベランダから眺める琵琶湖は絶景だった。


 立派な松の木。支えなければ間違いなく倒れる。松の木はおかしな成長の仕方をするが、他の木で松の木ほど斜めに成長する木はあるのだろうか。


 御陣屋とは堅田藩の藩庁のことです。織田信長の時代の四国の村上一族のような人たちが堅田にも存在していた。堅田衆と呼ばれていた人たちで、湖族と呼ばれています。湖賊と書いた方が伝わりやすいか。「ここを通りたかったら金を払え」と、通行料をせしめていた集団です。

 地図では西ノ切、東ノ切も描かれています。



 湖の近くにまでやって来ました。


 さすがに人が少なくて、のんびりしている。


 松尾芭蕉が船で現れて驚かせたエピソードが残されている。ここで月見をしたそうです。




 愛宕神社と書いてあった。当時は立派な建物があったのでしょう。現在は何もない。


 堅田の歴史を知る人が現役で和菓子を作っています。語り部としても活躍しており、様々な話を聞かせて頂きました。

「若い頃は60件程度しか家がなかったのに銀行が3件、映画館もあった。銀天街だった」と言っていた。理由は大手企業の工場があったからですが、今は面影がありません。


金時堂


 おそらく花の部分のみが和菓子なのだと思います。



 まさに芸術


居初氏庭園(天然図画亭)

芭蕉と同じ時代に活躍した茶人藤村庸軒と堅田郷士の北村幽安の合作江戸時代初期の作庭。国指定名勝に指定」


 居初(いそめ)家は供御人の系譜です。供御人とは献納していた人を指しますが、この地の場合は下鴨神社に当たります。12 - 13世紀には「三党」と呼ばれる居初、小月(おづき)家、刀禰(とね)家の地侍が存在し、中世末期に至るまで勢力を誇っていましたが、秀吉の頃に権力が奪われて衰退。その後、居初家は幕府に取り入って権力を奪い返しています。


 座って眺めると湖が見えなかった。何だか勿体ない気がする。






 瓦葺きです。



 現在の居初さんは随分と腰の低い方だった。


 一部、修復しているが、基本的には当時のままだそうです。


 ここまでが湖でした。桶を倒したような石が見えます。その中に蝋燭を入れて火を灯していたのです。


 ここで月見をしていたとは、何と優雅な暮らしだろうか。


砂洲の跡

 砂洲とは海岸のように砂が堆積して砂地になった部分のことです。ここで淡水の真珠が作られている。


 琵琶湖から水を引き入れて町中に掘を張り巡らせていた。物資の輸送にも使えたし、防御の役目もあった。


 魚の形をした瓦。初めて見ました。


祥瑞寺

「室町時代前期、一休さんが13年間修行した寺。それまでは「宗純」とよばれていたが、ここで初めて禅僧「一休」の道号を与えられた」


 一休は様々なところで修行した記録が残されています。この寺では青年の頃に修行したとされます。



 境内はひっそりとしている。


 松尾芭蕉も歌を詠んでいる。



光徳寺

「比叡山延暦寺の圧力が強く、堅田を離れて北陸へ移ることにした蓮如。その際、宗祖の親鸞の木像(御真影)を、比叡山と敵対する三井寺に預けた。その後、越前で布教に成功した蓮如は再び京都へ戻り、山科本願寺を建立。その時、三井寺に預けた木像の返還を求めた。ところが三井寺の返事は「生首2つ差し出すならば返してやろう」というものだった。堅田の漁師であった源兵衛はその話を聞くと、父親の源右衛門に「この首を斬って三井寺に持参して欲しい」と言った。困惑する父に向かって源兵衛は「今が阿弥陀如来の御恩に報いる時」と言って意志を曲げず、父は覚悟を決めて泣く泣く息子の首を刎ねたのである」


 このような言い伝えが残されています。史実かどうかはわかりません。



堅田源兵衛父子殉教之像

 境内に入って驚いたが、予約をすれば源兵衛の髑髏が拝めるらしい。一度見てみたい気もするが、罰当たりなので気が引ける。


伊豆神社

「本来は伊豆神社と神田神社の両社殿があった。二神を祀った当社は堅田大宮と奉称され、湖上特権をもって繁栄し堅田全域の総鎮守として尊崇されてきた。その後、兵火に遭い、伊豆神社のみ再建された」


幸福を呼ぶ石

 触ると幸せになる石。前回、訪れた時に触れたが、特に何も起こらなかった。今回はどうだろう。




 近年は手水舎を花で彩るのが流行している。


 ここがゴール。この日、一日で21000歩も歩いてしまった。


 中々、充実した一日でした。