京都市は満開のようだが、伏見の十石船はまだ咲いているとは言えない。


 それでも外国人観光客が次々に訪れてくる。


 外国人観光客は日本人とは違って他人に配慮はしない。同じ場所に長時間立ち続けて写真撮影に望んでいる。



 わざと人が写らないように撮っただけで、実際はかなりいます。ピーク時は人で埋め尽くされることを考えると、もう楽しめる場所ではなくなったと言えるか。



 改めて写真を見ると綺麗だとは思えるが、その場にいた時は少しも楽しめなかった。寧ろ一刻も早く離れたいという心境。


 今年の桜は気分的な問題で楽しめないだろう。


 体調も優れないまま。小説を読む気も書く気も起きない。テレビは壊れてしまい、映ったり映らなかったり。録画も失敗することが殆どなので番組表のチェックすらしなくなった。外付けのハードディスクも反応する時もあればしない時もあり、録画した番組は碌に見ることができなくなった。Netflixだけは普通に観れるが、2時間も集中して映画を観る気になれない。

 SNSを利用すれば、働きもせずに遊んでばかりいる人たちの自慢とも思える画像が飛び込んでくるわけで、これではどうにもならない。



 大谷の解説をしている人たちが無数に存在する。大谷は人気があり、実績もあるので仕方がないのかもしれないが、その大半の人たちが何らかのバイアスが掛かっていると感じます。

 若狭弁護士の見解が稚拙でビックリした。何の根拠もなく、「大谷がやっているはずがない」と断言していた。その前提で解説をしているので、内容がかなり偏ったものとなっている。おそらく本人はバイアスが掛かっていることに気づいてはいない。

 殆どのyoutuberは真実とかどうでもよく、多数派に付くことを選んでいる。多くの人たちから称賛を浴びる内容にすることでアクセス数を稼ぎ、自身のイメージアップを図るのが狙いです。

 若狭弁護士はどうなのかと言うと、おそらく人気取りの行動ではないでしょう。その立ち位置にいる人であっても「大谷ほどの人がやるわけがない」と話してしまうところに人間の怖さがある。人間らしいと言えば人間らしい。そもそも会ったことがないわけだから、大谷の人間性など分かるはずがないのです。フィルターを通した大谷しか見ていない。

 この人は松本人志など他の人の解説もやっているが、それらと比べると大谷に関しての動画だけが稚拙になっているのは何故なのだろうか。大谷のファンなのかもしれない。動画を観ても「一体、何言ってんだ、このおっさん」としか思えない内容だった。

「大谷は『〜だ』と言い切った話し方をしている。だから嘘をついていない」とも言っていた。若狭弁護士は「断定口調だから、嘘をついていない」と言っているのだが、これは何の証明にもなっていない。このような事を本気で言っているのだから呆れるしかない。

 あのような場で曖昧な話し方をするわけがない。そのように話せと指示されている可能性を考えないのだろうか。声明発表をするに当たって、それなりにシミュレーションをしているに決まっている。

 小川泰平も似たようなことを話していた。「大谷が違うと言った。だから違うんです」と話しており、聴いていて恥ずかしくなるような内容だった。この人たちは一体、何を言っているのか。

 日本のメディアは終わっていると盛んに言われるようになったが、YouTuberも大して変わらないと思うのは私だけか。






 今回は「ビリー・ミリガン 24の人格を持つ男」の紹介です。



 本当に多重人格者なのか、それとも演じているだけなのか。かつて全米を揺るがした事件が起きました。何人もの女性が性的被害に遭った事件です。

 犯行の手口が同一だった事と指紋から、犯罪歴のあったビリーミリガンが浮上する。

 弁護士は正義の味方ではなく、金の為に弁護するのが仕事のカスどもなので、ビリーが多重人格であることを盛んにアピールし、無罪に持ちこんでいきます。ビリーは自由の身となり、事もあろうに人気を博してしまう。

 この辺りはアメリカらしいと思います。日本でも上祐などが人気になったことがあったが、それでも一部の頭のアレな人たちくらいしか騒いではいなかった。アメリカは本当に人気者になってしまう。ハッカーもそのまま社会的に淘汰されるのではなく、企業が雇用したりと、この辺りの犯罪者の捉え方は日本とは全く異なっている。

 良い側面もあるが、被害者への共感性は皆無だったりと負の側面もあるので、良いとも悪いとも言えない。

 ビリーは家族や友人たちからの支援もあり、名前を変えて逃亡することに成功します。数多くの人たちを不幸にしているのにも関わらず、有名人と交流を持つなど、不幸になるどころか華々しい生活を送っているという下らないオチだった。


 仏教徒と話をしていると因果応報の話に言及することがある。「表向きには幸せに見えているけど、実際は苦しんでいるかもしれない」とか、「そのような人は、いつか必ず不幸になる」と言った話がなされることが多い。

 現実の社会を知らないから、そのような言葉が出てくるのだと思う。苦労を重ねてきた僧侶とそうではない僧侶の捉え方が真逆なのは面白い。様々な経験をしてきた僧侶は現実に即したことを話すが、勉強ばかりして知識はあっても経験が不足している僧侶は綺麗事ばかりを話してしまう。僧侶の中には、社会と隔絶された世界で生きている人たちがいるのです。

 僧侶以外に目を向けても、親に恵まれて悠々自適に生活している人たちの話す内容は、まるで頭の中にお花畑があるかのように感じてしまう。

 本当に苦しんでいる人たちに対して、その人たちが講釈を垂れるというのは、かなり危険な行為なのではないかと思う。藁をも掴もうとしている人たちに対して意味不明な発言をするという行為は、奈落の底に突き落とす行為と何ら変わらない。相手からすれば、この人たちには何を話しては無駄なんだと痛感させられるだけ。孤立を深める要因にしかならない。そこで分断が起きてしまう。


 ビリー・ミリガンですが、20年以上も前にビリーに関しての本を読んだ事があります。その本には、ビリーが自由の身になったとは書いていなかった気がする。人格がどのように別れたか、それぞれの人格がどのようなものなのかを主に書いてあったので、まさか自由になって、有名人と交流を持ち始めたとは思いもよらなかった。

 ビリーが多重人格者というのは、どこまで本当なのか。多重人格というのは所謂、解離性同一障害のことを指しますが、これは割と存在するらしい。1/100人ほどの確率だそうです。その中から殺人事件にまで発展する凶悪犯が出現する確率はもっと下がるので、数万人に1人とかになるのでしょうが、多重人格者がこんなに多いというのは意外だった。

 高ストレス下にある時、被害を受けている「私」を客観的に捉えて、「私が被害を受けている」と第三者の視点で見るのが解離性同一障害の特徴ですが、この感覚を持ったからといって、果たして本当に解離性同一障害と言えるのか。単なる想像かもしれない。後から被害状況を思い出した時、過去の私を客観的に捉えることになるが、その違いをどう区別するのだろうか。想像と実際に体験したリアリティの差で区別するのか。

 いずれにしてもビリーは単なるゴミクズ野郎です。幼少期に辛い体験をしたのかもしれないが、精神疾患や脳の疾患を持ち出してきて、「犯罪を行ったのは事実だが無罪です」と言われて納得できるはずがない。

 観て損をした。字幕も読みづらく、背景が真っ白なのに文字も白である事が多くて、読みたくても読めない箇所が幾つもあった。動きもなく、ただ人が話しているだけの映像を4時間も観なければならない。(ドキュメント映画、1時間4本立て) ある意味、苦行

 全くもってお勧めできる要素のない映画でした。