本日は「龍馬史」の紹介です。



 現存する手紙などから人物像を読み解いていく内容。


「上士の後藤象二郎の手によって、同志の武市半平太が殺害される。しかし坂本龍馬は後藤と手を組む」


 理由は脱藩浪士の寄せ集めでは政府に勝てない為です。この辺りの行動は坂本龍馬らしい。



坂本家

「坂本家は元々、滋賀の坂本に住んでいた。土佐では質屋業を営み、事業が上手く行ってからは、酒造業や呉服商など事業を拡大、高知城下屈指の豪商となる。後に郷士坂本家を興して分家となるが、財産分配として相続したのは、数億円。これ以外にも、所有する土地から小作料として年間千二百万が入って来ていた」


 よく坂本龍馬のことを脱藩した苦労人。お金にも困っていたなどと言う人がいますが、大嘘も良いところです。



「坂本家は郷士株を取得して郷士となった。坂本龍馬と名乗る頃には酒造業を止めて、貸金業に手を出している」


 郷士の地位を金で買ったということになります。世の中、やはり金です。郷士といっても下級武士であり、位は決して高くはありません。



織豊系大名と郷士

「織豊(しょくほう)系の大名は兵農分離が進んでいたが、他の地域は郷士が多かった」


 織豊系大名とは、織豊系城郭という言葉があるので、たぶん居住と政治や軍事などの機能を備えた城を持った大名のことを指しているのだと思います。



「織豊に対して郷士は地位が低い為に、自分たちの地位が脅かされる立場にある。その為、新政府軍に楯突いたり、維新以後に反乱を起こしていた」


 裕福な人など生活に満足している人は、改革などに興味はなく、したいとも思わない。寧ろ余計なことをするなと思っているでしょう。裕福な坂本龍馬が行動を起こした理由は郷士という雑に扱われる階級にある。そして裕福だからこそ、行動に移すことができたと言えます。



「坂本龍馬は地位を得る為に剣術を学ぶが、尊王攘夷の思想が世の中に蔓延するにつれて、それに囚われなくなっていく」


 桂小五郎と剣術で戦って勝ったと噂されていましたが、近年、資料が見つかってしまいました。坂本龍馬は3対2で負けています。

 坂本龍馬はこんなのばかり。次から次へと捏造された史実が覆されている。



「少し前にジョン万次郎が日本に戻ってきており、大統領が選挙で選ばれるなどアメリカの事情が一部に知られるようになっていた」


 これが新政府の設立に繋がるのだが、それを確立するまでは武力での争いが繰り広げられます。



尊王攘夷運動

「天皇を頂点として、他の公家や幕府などは同列であり、外敵に対しては討ち払うべきとした。しかしアメリカを意識すると、外敵を討ち払うことは困難であることも分かっていた」


 武力には圧倒的な差があったので、外国と戦っても勝ち目はなかった。仮に負けなかったとしても国内は疲弊して大混乱に陥ったはずです。

 薩長が同盟を結んで、その後、大政奉還へ向かったのは自然な流れのように思えます。



大政奉還や薩長同盟、そして龍馬

「大政奉還の考えは、龍馬より先に提唱した人たちがいた。薩長同盟の実現は中岡慎太郎の方が功績としては大きい可能性がある。幕藩体制後の新政府の政治体制は横井小楠の受け売り」


 何でもかんでも坂本龍馬の功績に仕立て上げる風潮があるが、実はそこまで活躍していない。



龍馬の最大の功績

「海軍を創設したこと」


 貿易目的で会社を設立しているので、海軍と言われると違和感が生じます。坂本龍馬はお金に関しての嗅覚は鋭かったが、お金を得て何がしたかったのだろう。本当に時代の流れを変えることだったのか。ただ便乗していただけのように思えるが。

 坂本龍馬は時代の流れに乗ることに関しては抜群に上手った。あと口も上手かったと思います。



真木和泉

 久留米の真木和泉のことも色々書いてあった。あまり知られていない人物ですが、清河八郎がわざわざ訪ねに行くなど、思想に於いて影響力があった。

 大山崎に行った時に十七烈士のことを知りましたが、そのうちの一人でした。



寺田屋事件

「寺田屋事件に関しては、2009年に資料が見つかり、薩長同盟に関わった人物として危険視されていた事が分かった」


 この寺田屋のエピソードも誇張されることが多い。薩長同盟に関わったのは確かだが、とても立役者とまでは言えない。

 寺田屋事件の時、坂本龍馬は薩長が同盟を結んだことが分かる機密文書を寺田屋に置いて逃げたが、これを「わざとやったのだ。坂本龍馬は凄い」と主張する人たちがいる。その理由は坂本龍馬の手紙にあります。

 坂本龍馬が「あれは、わざとやったのだ。西郷隆盛らと三人で大笑いした」と手紙に書いているので、それを読んだ人たちが、「さすが龍馬だ」と思い込んだわけです。流石に機密文書をわざと置いて逃げた可能性は低いと思うが、ファン心理だと、それが疑いもなく肯定されてしまうのです。



「薩長同盟は時代の流れだったので、坂本龍馬や中岡慎太郎が暗躍しなかったとしても、いずれ他の人たちの手によって締結されていた」


 著者も時代の流れだったと述べている。しかし薩摩の立ち回りの上手さというか、狡猾さ(卑怯とも言える)には辟易とさせられます。関ヶ原の戦いに於ける「島津の退き口」なんて、島津はどちらにも付かずに傍観者に徹しており、最終的には追い詰められて逃げ出している。判断ミスも良いところです。島津まで逃げることができたとは言え、家臣の9割が亡くなっている。これは果たして本当に美談なのか。



 著者の坂本龍馬評が的確でした。

「河田小龍によって世界を知り、勝海舟によって海軍を知り、横井小楠によって将軍なき政治形態を知る。このようにして龍馬の思想、新しい政権の枠組みの構想は形成されていった」


 構想の形成はしたが、時代を切り開いて行った。とまで言われると首を傾げたくはなる。

 このブログで坂本龍馬に言及した時は、世間で思われているほど活躍していない。と書いてきましたが、まだ浸透しきっていないように思えます。西郷隆盛はもっと酷い。

 坂本龍馬の良いところを上げるとすれば、向上心と行動力、物事を柔軟に捉えて受け入れる力だと思います。



「京都では長州藩は親近感を持たれていたが、会津藩と薩摩藩は嫌われていた」


会津藩

六科糾則(りくかきゅうそく)

「エリートを養成する。教育をして才能のある者を選別」


薩摩藩

郷中教育

「ケーススタディでの学習法。〜の場合どうするか? などの議題に対して意見を出し合う。この方法は戦国時代から行われていたが、次第に廃れていった。薩摩藩は才能のある者の選抜も行っていた」

 

 会津が嫌われていたのは、朝廷と結びついていたことや、エリート意識があったからか。

 薩摩は尊王を掲げていたが、実際は政治の主導権を握ることにあったし、随分と好き勝手な行動を取っていたので嫌われるのは当然。

 この二つの藩が嫌われた他の理由として挙げられるのは、会津と薩摩が結託して、京都から長州藩を追い出したことでしょう。これも一因としてあると思います。

 長州も薩摩のように尊王を掲げてはいても、天皇を利用したいだけだったので、薩摩と似たようなものだったはずです。



「慶喜は中道派。大政奉還で天皇に政権を渡すのは同意するが、土地や官位を奪われるのは困ると思っていた。徳川慶喜公伝は、慶喜に不利に書かれた史料を覆すように書かれている」


 いつの時代の人も必要以上に自分を大きく見せたがっている。このような要領の良い人ではないと評価を受けることができないのは残念ですが、これが社会というものです。



「龍馬が暗殺された日、坂本龍馬と中岡慎太郎が話をしていた内容は、宮川助五郎の身柄をどうするかだった」


 宮川助五郎は坂本龍馬と同じ土佐藩の者ですが、坂本龍馬が何者かの手によって殺害された時、「殺害したのは宮川だ」といった噂が流れされている。

「新撰組が犯人だ」と日記に記した人もおり、この辺りは混沌としている。



坂本龍馬の死

「永井玄蕃という幕府の重職。三島由紀夫はその玄孫。永井の下宿の隣に見廻組与頭の佐々木只三郎が下旬していた。坂本龍馬は永井に交渉を持ちかけていた為、佐々木に目をつけられた可能性がある」


 坂本龍馬は奉行所の役人を寺田屋でピストルで撃ってもいる。坂本龍馬に関しては、関係のないところで勝手にトラブルを起こして、勝手に殺されて亡くなった。と見ることもできそうです。重要人物とは言えない。


 本の最後の方では、諸太刀を入れた人物と命令を下した人物についても言及していた。

 坂本龍馬のことを、武器の売買からの視点で書いてあったので非常に好感が持てました。「よく分からないが、坂本龍馬は凄い!」と言った、妙な感情論で書いてはいません。

 数々の資料から紐解いて書かれた書籍なので、読む価値は十分にあると思います。