年始には既に「将軍足利義輝、自害」の辺りまで読んでいたはずだが、なかなか続きを読む暇が無かった。
コロナの影響で読書の時間ができ、もう少しで読み終わる。
大阪城はもともと石山本願寺があったところであるが、本願寺は信長と和睦して撤退した。
信長公記には、大坂退去について以下の記載がある。

そもそも大坂は、日本一の土地である。その理由は、奈良・堺・京都に近く、特に鳥羽・淀から大坂の町口まで舟の交通が直結しており、同時に四方が自然の要害となっている。北は、鴨川・白川・桂川・淀川・宇治川という大河が幾筋にも流れ、また二里、三里の範囲内に中津川・吹田川・江口川・神崎川が流れている。東南から東北へかけて、尼上ガ岳・立田山・生駒山・飯森山という遠山の景色を見て、その麓には道明寺川・大和川に新開の運河や立田の谷水が流れ込むという具合で、大坂の城の足元まで三里、四里の間は、大小の河川が広範囲に網目のように流れている。西は、広々とした海で、日本の各地は無論、唐土・高麗・南蛮の船が出入りする。五畿七道の産物が集まって売買され、その利潤で潤う経済力豊かな港町である。
そこに近隣諸国から一向宗の門徒が集まった。加賀から城郭の建築技術者を招いて、八町四方に敷地を整え、中央の高台に、彼らが「水上の御堂」と呼ぶ堂宇を高々と建立した。前には池を掘って一蓮托生の蓮を植え、後ろには弘誓の舟を浮かべた。仏前には光明を明々と灯し、阿弥陀仏の名号を唱える僧や門徒の声が満ちて、極楽往生の妨げとなる煩悩や罪業を消滅させている。
この仏法繁栄の霊地を慕って民家が軒を接して建ち並び、富裕な家の炊煙が絶え間なく立ちのぼるようになった。この宗門一筋に帰依する門徒が、遠国からも川や海を越えて参詣にくるので、昼も夜も、朝も暮れも、道に人影の絶えることがなかった。

このように石山本願寺は繁栄していたが、思いがけず天魔に魅入られた。信長がある年、野田・福島を攻撃した。・・・