今思えば神という言葉を聞いて、何を思い浮かべるかは個人によって違うということを
失念していました。
一神教、多神教という区分がありますが個人の宗教によって思い浮かべる神は違います。

人によっては愛の神だったりするのかもしれません。
日本においては神といえば神社の神が思い浮かぶ人が多いでしょう。仏は寺です。
神社といえば、ご利益とか願掛けの神さまをイメージが一般的になるのでしょうか。
私個人の話になりますが、幼少の頃に
祖母からは"仏さんは優しいが、神さんは厳しいしケガレを嫌われる"
という話を聞いており、神さんは厳しくて潔癖症のイメージを持っていました。

ならば仏さんなら優しいのかと思っていれば、寺には地獄絵図が飾ってありましたし、
蜘蛛の糸という絵本では地獄が描写されていました。
子供の自分にとっては、この地獄の存在は衝撃でした。

神言会は大本神諭を解説していますが、出口直開祖に懸かった艮の金神なる存在は
とても厳しい存在で、改心できん守護神は灰にするぞとかこのウジ虫がとか
尋常でない言葉が大本神諭に綴られています。
ちなみに出口直開祖は、浪費家の夫のせいで極貧生活を歩まれました。
長男が発狂して自殺未遂の後失踪したり、別の息子が戦死したり、
娘夫婦に監禁されたりとか不幸な生活を歩まれています。
艮の金神こと国常立尊は、苦労をせんと魂は磨かれんから直をここまで
落としたのだ!です。
ちなみに直開祖は信仰心の篤く、謹厳直正ながら慈悲深い方だったそうです。
その性格から信徒にも尊敬されておられました。
そうで畏れ多いとして、冬の寒い中でも毎日水行をして火鉢にも当たらず
神に"大難を小難"にと毎日祈っていたそうで、
食事においても贅沢はしなかったようです。

それにしてもこの神さまは、単純な愛とかご利益の神ではなかったようです。

以下は出口日出麿先生の言葉です。

地的精霊(副守護神)とは人間に内在されたものである。
一般的にはそれを煩悩と云っているが本当は動物霊の一種である。
総ての人に憑いていてはなれることはない。
それの馴化向上が最も重要な勤めであるとかかれている。
一生を上げて、とも云われている。
其れぐらい難しいのだ。
行者が荒行をやっているのもそれを押さえつけようとしているのだが成功しない。


人間の即物的、動物的な要素である煩悩とか肉体欲を排除するような宗教があります。
いわゆるこれらの要素を司っているのが副守護神です。
この副守護神をいじめるのが修行か?といえばそうではありません。
殴ったりいじめたところで悔い改めはおきません。
人間には、本守護神、正守護神、副守護神という3種類の霊が同居しています。
正守護神、本守護神は善的、神的な霊です。副守護神はいわば悪霊です。
副守護神を悔い改めさせるのが修行ですが、人間も悔い改めが必要です。
副守護神と一緒に学んだり体験したり、真理を悟ったり、自分の間違いに気づいたりの
過程が必要です。
修行が成功すれば、副守護神が正、本守護神に従うがおきます。


霊能者とか行者で「俺は偉いのだ!。凄いのだ!」と言う方達は、
そのほとんどが守護神に問題があります。
俗に副守護神と呼ばれる存在が「その心の持ち方」を間違っています。
だから、副守護神なのですが。
その行動に間違いが無ければ正守護神が出ている事が多いのです。
創造神は何故に人に副守護神を付けておられるのか?。
そこに副守護神も守護している肉体と一緒に学んで、
自分の間違いを気づく必要があるから、
この世の者と一緒に学びをする行動をしなければならないのです。



人は白紙として生まれ過去を忘れているから、伸び伸びと新しく生きる希望も持てるのだ。
其れも神のめぐみなのだ。忘れることも神の恵みなのだ。
過去と絶縁して今新に生まれたからやる気が起きるのだ。
過去を忘れ未来に生きる希望こそ神の働きかけである。
過去を捨てよ、トラウマを清めよ。過去の厭な記憶はすべて洗い流せ。
それが修行である。それが終れば総てが分ってくる。
その時ならば過去を知っても大丈夫なようになっている。
知らなくてよいものは知らない方がよいのだ。
自己の過去の浄化法は懺悔祈り念仏題目でこころを清めること。

出口日出麿