一霊四魂の幸魂。
その働きは奉仕や生成化育の愛ですが、その幸魂の戒律は畏れです。
畏れ敬うという意味です。

"君子に三の畏れあり、天命を畏れ、大人を畏れ、聖人の言を畏る。 孔子”
"神を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。 旧約聖書 "

私は、スピリチュアル系を自称する人が神社やパワースポットやらに
大勢で押しかけて神木をやたら触りまくったり、
入っては行けない場所に入ったり汚したりという話を聞いています。
エナジーバンパイアという言葉がありますが、そういう存在を嫌っているわりに
自分らが神社等に対してエナジーバンパイアしてないでしょうか?
そういう方は、パワースポットやらにはいっても妙なモノを連れて帰るだけ
と思います。

神社も公の場所ではないでしょうか。
酷い話、神社参拝の際、神は従であり願かけする人間が主ですなどという
ブログがありました。

愛を語る人は多いでしょうが、そこに畏れはあるのでしょうか。
その愛は本物でしょうか。
念仏みたいに愛を唱えることが正しいわけがありません。

米教では愛があるかだけでなく、そこに良心があるかを見ます。
愛というのは動物にもあるでしょうが、求めるのは仁愛です。
神々も愛を持っておられます。それが正しいかどうかを証明するのは何でしょうか?

"神は公"といいます。神々が求めるのは公、社会に対しての義です。
他を救いて世根となれの部分です。
本当の仁愛なら義の土台となるでしょう。
求めるべきは羽の生えた天使よりも、共同募金でいう社会貢献の八根です。

悪人的なリアリズムを説いた
君主論で知られるマキャベリが面白い言葉をいっていました。
"天国へ行くのに最も有効な方法は、地獄へ行く道を熟知することである"
"自らの実力に基礎をおかない権勢や名声ほど頼りにならないものはない。"
特に面白かったのがこれです。
"ある人物を評価するに際して、最も簡単で確実な方法は、
その人物がどのような人々と、付き合っているかを見ることである"

鎮魂帰神の心得として
"精神正しければ、即ち正神に感合し、邪なれば乃ち邪神に感合すべし。
吾精神の正邪と賢愚ただちは、直に幽冥に応ず。最も戒慎すべし。"
とあります。
何にしても人間の御霊相応というような鏡のような原則があるようです。

最近チャネリングなどがよくいわれますが、
"神憑りになったものは、割れた茶碗のようなもので最後の御神業に参加できない。
新月の光 出口王仁三郎"
過去、出口王仁三郎が信徒に鎮魂帰神法を教えたところ
悪霊がかかる人間が多くて最終的に神懸かりは禁止したようです。

日月神示の岡本天明氏は、神懸かり体質で自身を霊媒として
正神と対話することもできたのですが、天狗やら妖怪の類が正神を騙りながら
懸かってきて往生したようです。
"得体の知れない妖魅にたとえ一時といえ、自分の身心を任せるのが、
つくづく嫌になった"、と彼は残しています。
そういう霊を判別するのが知識で判断するのが審神者であり、
場合によっては霊縛という強行手段をとる、ようです。

人間は副守護神なるいわゆる妖怪みたいなのを、
先天的に伴っていますので、わざわざ禰宜の真似をして悪霊を呼び寄せなくても
そもそもそういう霊には困っていない筈です。


隣人愛といえばキリストですが、孔子も仁愛として隣人愛を語りました。
対してニーチェはその克己思想故、隣人愛は自己満足に過ぎないものとして、
現在の己を超えるような価値、道徳を形成する自己超越を求めました。
隣人愛に対して、自己超越を成し遂げる未来の自分への愛を遠人愛としました。
自己超越の結果、真の自己愛と人類愛が成し遂げられるとしました。

どちらが正しいかとは申しませんが、愛という言葉もその受け取り方も
結局は人間のミタマの格次第によるかと思います。
どのような神示や教典にも仁愛だけでなく、
克己的な身魂磨きというものが言及されているかと思います。
むしろ本当の隣人愛、仁愛にこそミタマ磨きが求めれらるかと思います。

それを忘れて念仏みたいに愛を唱えることが正しいわけがありません。
邪霊の愛と正神の愛は違うのです。


"何事もこの世は人間の自由には木の葉一枚だつてなるものではない。
みんな神の御心のまにまに操縦されてゐるのだから、
いかなる事が出て来ようとも惟神に任し、
人間は人間としての最善の努力を捧ぐればよいのです。

この竜雲さまだつて、始めはずゐぶん虫のよい考へを起こし、
得意の時代もあつたが、たちまち夢は覚めて千仭の谷間へ身を落としやうに、
見すぼらしい乞食とまでなり果て、ここに翻然として天地の誠を覚り、
諸国行脚をなし、今は完全な神司となり、
御神力を身に備ふるやうにおなりなさつたのですから、
人はどうしても苦労をいたさねば誠の神柱になることは出来ませぬ。

この北光の神(きたてるのかみ)が都矣刈(つむがり)の太刀(たち)を鍛ふるにも、
鉄や鋼を烈火の中へ投げ入れ、金床の上に置いて、
金槌をもつて幾度となく練鍛へ叩き伸し、
遂には光芒陸離(くわうばうりくり)たる名刀と鍛へるやうなもので、
人間も神様の鍛錬を経なくては駄目です。

一つでも多く叩かれた剣は切れ味もよく、匂ひも美はしきやうなもので、
人間も十分に叩かれ苦しめられ、水火の中を潜って来ねば駄目です。
霊界物語 第四十一巻 第十四章"