天国に行きたい方は多いでしょう。
出口王仁三郎聖師も地上天国の建設の建設が人間の使命だと言われています。
天国は確かに素晴らしい国でしょう。
しかしながら、すべての人間向けの場所ではないようです。
どうも天国地獄は、単純な良し悪しだけでなく、
人によって合う合わないがあるようなので説明致します。

「天国は分かちの国」との説明があります。

本当の神の御国とは「分かちの国」であり、一つの物を皆で平等に分けて食べる世界です。独占欲の強い人には向かない世界なのです。皆で分け合うから平等の世界なのです。

一応地上にも天国に近い場所はあったようで説明しておきます。
こういう話があります。

虞芮(ぐぜい)の訴(そ)というものです。
古代中国、虞(ぐ)と言う国と、芮(ぜい)と言う国が有りました
双方は土地について争い、紛争の調停を頼むため
当時仁政をされていた西伯(文王)の決裁を仰ぐため
両国の君主は周の国へはいりました。

周の農民は互いに畔を譲る、自分の田畑の土地を
隣人に譲り合う謙譲の気風に溢れていました。
都に入れば若者が、老人の荷物を持つ思いやりが見てとれました。
道行く者は道を譲り合っていました。
文王の治世下ではただの農民、一般市民でさえこのような徳をもっていたのです。


それを見て両国の君主は、我々は周の地を踏む事は出来ない、
と恥入り引き返しました。
二人は思い知らされたのです、我々は何をしていたのかと。


我良しの人間が、天国にいけないとはこのことでしょう。
スウェーデンボルグや王仁三郎聖師曰く、悪人はその性質から
天国が合わないとあります。

対して地獄は歓楽街のような場所で、強いものが快楽を求める場所です。
虞芮の国のように国同士の争いが起きるでしょう。
そこの住民は土地を奪い合い、道を譲るようなことはなく諍いは止まらないでしょう。
肉体的には弱いご老人は、略奪されたりがままあるでしょう。

老子曰く
賢を尊ばなければ、民の競争はなくなる。
財貨を重んじなければ,盗みはなくなる。
欲望をかきたてる物をみせなければ、民は心を乱さなくなる。
これによって道を体得した聖人の治世は、民の心を単純にし、
食料を十分に与え、反逆の意思を弱くし、体を頑強にしてやる。
常に民を無知無欲にし、智者(小賢しい連中)には口出しさせない。
無為の政策をとれば治まらない事はないのだ

ここでいう無知無欲は、俺の利益のために小賢しい知恵を振りかざしたり
諍いを起こしたりするような我良しが無い状態です。

孔子曰く
国民を導くために政策を用い、また治めるに刑罰をもってすれば、
国民は恥知らずのまま法律の穴をみつける。
しかし、徳をもって国民を導き、礼をもって国を治めるならば、
国民は恥を知りその行い正すようになる。

孔子の目指す統治は、国民が恥を知るようになり、自ずからその行いが正されるものです。

小賢しい知識を欲のために振るって諍いを起こさず、
恥を知りその行いを自ずから改める。
そういう性質の人間が集まるわけで天国には諍いが起こらないようです。


"一般的に、天国とは金銀財宝で彩られた世界だと思われています。
私はそうしたことを聞くと?と首を傾げてしまいます。
お釈迦様の説法[蛇に墜ちた長者]でも解るように、
蛇の国に入れば金銀財宝で輝いてはいるでしょう。
住人達が自分の財を誇る。
しかし、自分の財を取られまいと蛇の姿に化して他の者達を威嚇する。
それでは心が安まらないでしょう。
私が知る国は金銀財宝で輝いてはいません。緑色の田園風景が広がる様な農村の国。
誰もが働くことを喜び、住民の服装は清潔の白色でも、
一人一人の住人の心は[宝石の如く]輝いているのです。魂の輝きが宝石。

私が知る国では財に執着することはありません。
人より綺麗な物を着て見せびらかしたい等の虚栄心を持った者もいません。
皆が平等に分かち合う。為に、地位や財を巡って争うなどもないのです。
皆で分かち合う、分かちの国

住人の一人一人が他の住人の喜びを自分の喜びとし、
他の住民の悲しみを自分の悲しみとします。
住人の誰もが友であり仲間達。心が安まる世界。"





鳥居本来の目的は、悪とか魂が汚れた者は通さないにありました。


一度夢に見た映像で鳥居の無い世界がありました。なるほど悪人がいない世界ならば
鳥居などいらなくなるのですね。

霊界物語
"然るに孔子の教理は余り現世的にして、神界幽界の消息に達せざるを憂慮し給ひ、
野立彦命は吾が身魂の一部を分けて、同じ支那国に出生せしめ給ひぬ。之老子なり。"

孔子と老子は相反するような部分があり混乱するかもしれませんが、
あえて両方並べておいています。