おいらはとても鈍感だ。というか不器用だ。その人が話す真意が分からない。

そしてその人の真意が分かると嘘と決め付けてもはや全く聞く耳を持たなくなる。

今おいらがマスコミを全く信じなくなったのはそれからなんだろうと思う。

大学当時、いまだに仲のいい友達となぜ人は正直にものを言わないのか、話したことがある。

特に女性たち。

大学時代、女性を誘うと、まあ、いろんな反応はあろうが、

「その日は用事がある」というのがかなりあった。

これが、「行きたくない」という意味と知ったのはあとになってから、彼と話してからだ。

それが女性たちはかなり軽いことでも「用事がある」という。

大学時代、おいらたちの隠れた爆笑流行語となった。

そして卒業して何も変わらずダラダラ数年たったが、今になってやっと「用事がある」という言葉が変わった形になったということに気づいた。やはりおいらは鈍感だ。

結婚して子供をもったら

子供が風邪をひいた(ので行けない)

イコール「行きたくない」である。

このように結婚してから変わるということに最近気づいた。

2年連続で言われて気づかなくて、それとは別でテレビを見ててある無理心中のニュースで母親が休むのをこういう理由でしていた報道で初めて気づいた。なんともおいらは鈍感だった。

なるほどねえ、結婚したら子供の責任にするんだあ。

なんとも鈍いおいらである。これおいらたちの爆笑流行語に遅ればせながら入れさせてもらう。

一度はいいが二度そうなら三度目は誘わない。

「嘘も方便」という言葉がある。嘘を言っても方便だ。という意味だが、方便とは??

「悟りに至る手段」を意味する。転じて結果が良ければいい手段を意味する。

つまり嘘であっても結果がいいのならその嘘は許される、逆にいいことだという意味だ。

法華経が由来だと思われる。「第二章方便(方便品第二)」がありその次に「第三章たとえ」(譬喩品第三)というところで釈迦がこういうたとえ話をする。

大豪邸の火事の中子供3人が気づかずに遊んでいる。(この時点で変な話だが、、)出て来いといっても気づいていないのでなかなか出てこない。それを外から大富豪である父が「今、早く出てきたら好きな車をあげるよ」と、いう。子供達は「羊の車!」「鹿の車!」「牛の車!」と言って家の外に出る。

その父親は豊富な財産をもって子供全員に等しく「白い牛の車」あげる。

ガウタマ・スィッダルタ(お釈迦さま)がシャーリプトゥラ(舎利子、舎利弗)にこれは約束通りじゃないが偽りなのか?と尋ねると、

「いいえ、炎から救い出す手段だから偽りではありません。富豪は富豪の富で子供達に最良のものを与えたのだから偽りではありません」

火事に気づかないで遊んでいるという設定がまず無理があるのだが、つまり、目的さえよければそれにいたる手段や方法なんてどうでもいい。嘘をつこうが、それは嘘、偽りとは言わない。

大乗仏教の大経典がそう言っている。

おいらはこの教えに非常に違和感があるというよりも、嫌悪感を抱く。

今でいうと、子供たちが「スズキのkei!」「三菱パジェロ!」「やっぱベンツ!」といっているのに、「センチュリー」を買い与えている。父親が、「子供には最善のものがいいのだ。そして私には財力があるから、私が一番だと思うものを与えるのだ。これが子供のためにもなるのだ」と平然と思っているし、釈迦もそう思っている。そういうたとえ話は、おいらの心にぐっと来ない。

テストで100点とったら、何がほしい?と言わせる。アクション・ゲームやロールプレイング・ゲームと言った子供が実際100点とったとき、それを買わず脳トレを買い与えるのと同じだ。だって、教育に最善でしょ?この子のためを思ってるんだから嘘じゃないでしょ?と同じだ。釈迦はそういうことを一番弟子に同意させようとうながしている。

こういう思想は、たとえ中国産の餃子であっても、ちゃんとしておけば、日本人の中国産は危ないという先入観をおさえるために「日本産」としていても、逆にそれが不安な思いをさせずにすむからいいんだという思想に結びつく。

面白いのがお釈迦さまがシャーリプトゥラ(舎利子)に、「これは『偽』かね?」と聞いていることだ。

去年の世相を表わす漢字はまさに「偽」であった。この漢字は京都の清水寺、奥の院で貫主(かんす)が大きな紙に書いて表わした。年末の恒例行事だ。

皮肉にも寺の坊主なら分かるべきことである。ミートホープも、赤福も、白い恋人も船場吉兆も消費者が「うまい!」といいさえすれば、それでいいのである。いやそれが最善、最良なのだ。あとはどうでもいいのだ。それが「嘘も方便」だ。目的がよければその手段方法(つまり方便)はどうでもいいのだ。それは偽りにあらず、というのが法華経の教えである。だから清水寺の坊主は「善」と書くべきだった(笑)

法華経の根本的思想はこうことである。おいらはとうてい、法華経を信じることができない。

世の中の法華経を信じる人ほど法華経を読んでいないということも手伝いおいらには変に思えてしまう。

嘘は嘘だ。カルト教団や左翼思想団体は初め勝手に作ったもので勧誘して、その後思想を植えつけていく。全く同じで、目的の思想がすばらしいから、誘うときの多少の嘘は嘘とは言わずむしろ善だという思想である。世界的に見て、イラク・フセイン大統領の形だけの裁判そして即日死刑もそうだったし、東京裁判の形だけの裁判もそうだ。目的がよければ過程はどうでもいいという思想。

大きな嘘の中でお互い小さな嘘で暮らしている。だからおいらにはこの社会が窮屈だ。