第十六話
慶介に送ってもらい、マンションに帰った途端、父と母の怒鳴り声が聞こえた。
「どうしてあなたはいつも!」
母の張り裂けそうな声だった。
「家族の為に仕事をしているのに!」
父の荒々しい声。
「少し位協力してくれたっていいじゃない! 洗物も、洗濯物も、こうやってまとめて置かれたんじゃかなわないわ!」
「ただそこに置いただけじゃないか!」
「置いただけ? じゃあ誰がやるのよ! 全部私でしょう!」
その時、唖然としてそこに突っ立っていた愛理を父は見た。
「愛理! 洗濯して食器洗いなさい!」
「は…え…」
「お前も家族の一人だろう!」
怒鳴られ、愛理は驚いた。
「う、うん…」
「さっさとしろ!」
愛理は腕を引っ張られ、洗い場の前に立たされた。
訳も分からず、腕をまくり食器を洗いはじめる。
母はバンと、部屋のドアを閉めた。
それが気に食わなかったらしい父は、母の部屋のドアを勢い良くあけた。
「疲れてるんだよ! 毎晩毎晩ろくに眠れないで…」
「分かってるわよ! あなたが疲れている事位。ただ私だって疲れているの」
「私はただ洗い場に食器を置いて洗濯籠に出張で溜まっていた洗濯物を入れただけじゃないか!」
「じゃあどうして帰ってきた時に置かないのよ! あなたがまた出張だから用意していたのに、出張目前になって洗物を置かれたって」
ああ、と、愛理は食器を洗いながら頷いた。
また、痴話喧嘩か。
でも、いつもと少し違う。
二人とも、今夜は相当ヒステリックになっている。
愛理は水道を止め、様子を伺いながら洗濯機を回した。
父がどかどかと戻ってくる。
「愛理」
「は、はい…」
「お母さんは頭がおかしいんじゃないか?」
バン、と、またもや母の部屋が開いた。
そして母も父に負けじと凄まじい足音で近づいてくる。
「頭がおかしい? じゃあ言わせてもらいますけれど、おかしいのはあなたよ! 仕事が忙しいのが分かるから言わなかったけれど、あなたはまるで全うな精神をしていないわ! ちょっとした事で直ぐに怒って、話し合いにもならなくて! ねえ、愛理?」
「え…えっと…」
「お母さんだってそうじゃないか! 髪の毛一本でも落ちてると誰の髪の毛と言って怒るし」
「あなただってパソコンに触った位で怒鳴り散らして、人の事を言えないわ!」
愛理は焦った。
「ちょっと、落ち着いてよ」
「ふざけるな! お前等の為に働いてるのに!」
「私だって同じよ!」
「お、落ち着いて…」
「ろくに家にも帰ってこないくせに! うちは食堂じゃないのよ! 帰ってきてご飯がないと怒られるような覚えはないわ!」
「お前はこの家の主婦だろう! ろくに飯も作れなくてどうする!」
「私だって朝の七時から夜の六時まで仕事をしているのよ!」
「私だって…」
愛理はそっと、自室に戻った。
「はあ」
まだ、廊下からわいわいと喧嘩の声が聞こえる。
音楽をかけて、ボリュームを上げた。
「うるさいわね!」
「音下げろ!」
二人が乗り込んできて、ステレオのコンセントごと引っこ抜いた。
そして出て行く。
「…はあ」
喧嘩はいつも、他愛ない事から始まって。
怒鳴りあう声で加速していって、ドアを閉める物音や、荒々しい足音でさらにお互いの神経が逆立って。
おまけに娘に八つ当たり。
八つ当たりはまあいいけど。
今回の喧嘩は少し、壮絶である。
愛理は夜の十二時ごろ、そっとキッチンに行った。
電気が消えていたから、誰もいないだろうと思っていたら、そこに母がぼんやりと見えて、愛理は驚いた。
「お母さん!」
電気をつけると、母は酒を片手に目を据わらせて、ぼんやりとしていた。
心配になって、肩をゆさぶると、母は笑った。
「別に大丈夫よ」
「じゃあ…電気位つけなよ…」
「そうね」
母は酒をぐびりと飲んで、深くため息を吐いた。
「まだ、寝ないの? いつも十時には寝るのに」
「うん、これ飲んだら寝るわ」
「…うん」
愛理はお茶を注いで、その場で静かに飲んだ。
「お父さんは?」
「また仕事」
「…そっか」
少しすると、母はタバコに火をつけて、首をごろりと動かした。
「あー」
疲れた。
愛理は母をそっと見て、声をかけた。
「大丈夫?」
「ええ」
「…無理、しないで」
「大丈夫よ」
タバコを二度吸った時、母は突然言った。
「先生が言っていたのだけど」
「うん」
「脳梗塞の場合、死んでしまうのなら、すぐに死んでしまって、生きるのなら、長く生きるのだって」
「どういう意味?」
「つまり、介護って分かるかしら。もし生きるのなら、これから介護が始まるかもしれないわね」
「お母さんの施設のような?」
「…どうかしら。あそこにいる人達は皆、ある程度元気な人だからね。おばあちゃんほど、重症な人はいないわ」
ふう。
母はタバコを消して、さらに酒を飲んだ。
「本当に、人はいつか死んでしまうのね」
母は呟いた。
「当たり前の事じゃない」
愛理は優しい声で言った。
「そうねえ、でも、それを当たり前と言って受け止めるか、沢山の事を尽くして受け止めるのとは、きっと意味が違うと思うわ」
「うん…」
「それより」
母は愛理を見た。
「あなた、喪服閉まったでしょう。私出しておいたのに」
「ああ…だって、なんだか」
母ははっきりと言った。
「おばあちゃん、いつ死んでしまうかわからないからね。出しておいて頂戴」
「はい…」
「不謹慎だとでも、思ってる?」
少しね、と、愛理は小声で言った。
不謹慎だと思った。
祖母は確かに眠ったままだけど。心臓は鳴っているし確かに、ぬくもりもある。
生きているのに、喪服の準備なんて。
母は首を振った。
「いざと言うときの為よ。おばあちゃん、お店をやっているし、あそこら辺の土地もまだ多く持っているから、知り合いが多いでしょう。葬儀をする時に私達が慌てられないのよ。皆口には出さないけれど、準備はするのよ」
「そうなの?」
「ええ、そうよ。土地の話だけど、兄弟や私達にどう分配されるのかも、親戚で話さなければならないしね。誰かが欲を出せば相談する必要もあるし」
「…うん」
「それからね、病院では私が看護婦だってこと、病院関係者には秘密にしてちょうだい」
「どうして?」
「そういうものなの。看護婦だって分かると、じゃああなたがやればいいじゃないって…」
「あの先生はそんな事思わないよ、きっと」
そうだけど。
母は言った。
「そういうものなのよ。四六時中、私達がおばあちゃんの傍にいる事は出来ないでしょう。いない間は、看護婦さん達が色々と面倒を見てくれるじゃない。タン取ってくれたり、目やに拭いてくれたり。もし私が看護婦だと分かると、色々と感情が出てくるのよ。あなたがやればいいじゃないってね」
その時の愛理は、人が生きるか死ぬかの場所で働いている白衣の天使が、まさかそんな事を考える訳はないと思えていた。
実際、その病院ではなかったけれど。
後々、母の言っていた言葉を思い知らされる事があった。
まだ当分、先の話だけれど。
第十五話
「今日はこの辺で」
七時ごろ、慶介が自宅に戻って車に乗って祖父の家に来た。
店を閉めた祖父が、久しぶりに料理を作っていた。
「伯母ちゃん、毎日こんなやるの?」
思わず、愛理は伯母に言った。
「当然」
「うそ…」
「なによ、若いくせに根性無しね」
母さん、と、慶介は玄関前に置かれたゴミ袋たちを見た。
「俺だって、毎日ゴミ袋五袋だしてたら疲れるよ」
「しょうがないじゃない。だってまだまだ捨てる物あるのよ。ねえ?」
ねえ、と、言われた愛理は苦笑した。
「まあ、そうだけど」
「殆ど使ってないけどね。誰も、使う事が出来ないから」
伯母はまたもや、感傷的になる。
「はい、できたよ」
祖父が言って、鍋を持ってきた。
中にはお雑煮が入っている。
「すごい、じいちゃん作れるんだな」
と、慶介は笑った。
「うん。おじいちゃんねえ、百姓の家に生まれたから」
愛理が小皿に盛り分け、祖父は少し嬉しそうに話していた。
「七人兄弟だったんだよ。毎日毎日、皆で変わりばんこに食事を作るんだ」
「そうなの? お母さんは?」
「お母さんは、仕事。そうやって家族皆で協力し合って毎日を過ごしたんだよ」
へえ、と、愛理は頷いた。
今じゃ、そんな家庭はあまりないだろうな。
お雑煮は、味が薄くて、結構ぶっきらぼうで。けれど、とても温かく野菜に味があった。
祖父らしさが出ているようで、愛理はそれが好きだった。
「ねえお父さん」
と、伯母が言った。
「お母さんのお見舞い、今日は少し休んで」
「うーん」
と、祖父は唸った。
「毎日毎日行っていたんじゃ、本当に疲れて倒れちゃうわよ」
ふふ、と、伯母は笑った。
「お父さんまで倒れちゃったら、私達どうしようもなくなっちゃうから」
「うん、そうなんだけどねえ」
だけど、と、祖父は言った。
「気になっちゃうんだよ。頭からお母さんの眠った顔が離れなくて」
でも、と、慶介が言った。
「ばあちゃん、気持ちよさそうに寝てるよな」
「うん。そうね、本当に」
伯母も頷く。
だんだんと空気が、重くなってきた。
そう言えば、もう一週間が経つな。
愛理は思って、カレンダーに目をやった。
慶介も釣られて、カレンダーを見る。
毎日毎日、沢山の事があるから、カレンダーの日付欄には小さな文字で色々なことが沢山書かれている。
本当に、変わってしまったんだなと思えた。
いつも祖母はここで、テレビを見て笑っていたのに。
いまはもう、誰もテレビをつけない。
第十四話
三十日の日、愛理と伯母は朝から祖父の店に待ち合わせをした。
「あ、店が開いてる」
と、愛理は思わず小さく呟いた。
若い中学生くらいのお客さんが小さな椅子に座って、目の前でパンク修理をしている祖父を見ていた。
「おじいちゃん、おはよう」
「うん、おはよう」
祖父は車輪から視線を逸らさず言った。
愛理は店内の様子を見ながら、奥に入った。
昔から、自転車や原付バイクが沢山あって、小さな頃は埃叩きでよく、掃除を手伝ったっけ。
今はもう、そんな事をする必要も無いくらい、自転車もバイクも少なくなっていた。
「おはよー」
と、先に来ていた伯母が言った。
「おはよう、伯母ちゃん」
「さて、じゃあ早速始めますか」
言いながら伯母は愛理にエプロンを掛け、ゴミ袋を手に二階へ上がった。
伯母には、昔から痛い目を受けた。
波長が合わないというか、なんというか。
伯母はかなり、ストレートではっきりと物を言う人だ。
パワーがあるというか、愛理は少し押され気味である。
けれどこれを機に、愛理は伯母を見る目が少し変わり始めていた。
「どうしようか。これ…」
言いだしっぺの伯母が、部屋を見て呆然と言った。
部屋にはとにかく物が多い。
昔洋服の洋裁をしていた祖母の部屋には、とにかく大量の生地と小道具、飾りやマネキンなどが置いてあって、小さなシャンデリアがそれらを薄暗く照らしていた。
「このシャンデリア、電気代食うのよね」
と、伯母が呟いた。
「昔から、こんなのが好きで。考え無しになんでもかんでも買っちゃって…」
少し、感傷的になっているようだった。
愛理は明るく言った。
「伯母ちゃん、どうしようか。とりあえず何があるか見てみない?」
「うん」
そうね、と、伯母は小さく言った。
数時間後、伯母は慰める必要も無いほど元気一杯に動き回った。
「愛理ちゃん! これ洗って! これ捨てて、これはあっちにあつめて、これはこうしてあれはああして…」
愛理が肩で息をしながらバタバタと動き回り、伯母はそれ以上に動いている。
「ああ! 忙しい!」
伯母のテンションはかなりヒートアップしている。
愛理はゴミ袋五つを抱え、はあと息を吐いた。
「伯母ちゃん…これ全部捨てるの?」
「ええ」
「でも…こんな綺麗な生地もあるのに」
「だって、もう使えないでしょう。おばあちゃんミシンも踏めないからね」
ああ、と、伯母は自分で言いながら頷いた。
「そうよ、このミシンどうしようかしら」
その部屋でかなりの面積を取っている、業務用のミシンである。
幅が一メートルはあるだろう。それに、かなりの年季が入っている。
「捨てるかしら」
愛理はどきっとして、直ぐに待ってと言った。
そのミシンで、祖母は沢山の服を作ってくれた。
小学生位のことだけど。雑誌で欲しい服があって、それを祖母に見せると、いつもいつも、その大きなミシンで似せた服を作ってくれる。
思い出の、ミシンなんだ。
「伯母ちゃん、もう少し、片してみようよ。もしかしたら、おばあちゃん治って踏めるようになるかもしれないから…」
伯母は疲れたように、鼻で笑った。
「そうだといいけど」
無理なのに。
伯母は言って、ミシンにカバーをかぶせた。
そうか…と、愛理は感じた。
自分にとって母は母であるように、祖母は母や伯母にとって母なのだ。
きっと自分以上に、この部屋にも、このミシンにも、深い思い入れがある。
捨ててしまえば…楽になるのだろうか。
それがたとえ、一時の為だとしても。それでなにかが、救われるのだろうか。
愛理は切ない気持ちで、ミシンを見つめた。
第十三話
3
祖父の家で、慶介や伯母、愛理や母、祖父が集まっていた。
夜の、十時の事だった。
「眠い」
と、伯母が呟いてあくびをした。
「私だって」
母も言って、目薬をさす。
愛理は祖父をそっと見た。
久しぶりの大料理に疲れて、すでに意識は半分眠っている。
愛理と慶介は目を合わせて、小さく微笑んだ。
「おいしかった?」
「うん。愛理ちゃん料理できるのね」
伯母は言って笑った。
彼女は少し、愛理が料理を作っているだけで異常なほど驚いた。
慶介に叱られていたけれど、愛理はそれが少し悲しい気がした。
「また作ってね」
「うん。任せておいて」
「頼りないけど」
「母さん」
また、伯母は慶介にたしなめられる。
「それより」
と、母が言った。
「どうしようか。とりあえず、誰が何曜日にお見舞いに行くのかだけ、決めてしまいましょう」
「そうよ、そうなのよ」
独り言のように、伯母は頷いた。
「まず慶介は」
彼はどきりとして、伯母を見た。
「仕事が空き次第私達の運転手」
「いいけど…俺も疲れたな」
はーあと、彼はおどけたようにため息を吐いた。
「うるさいわね。私達の方がよっぽど疲れてるのよ」
「うん」
「じゃあ私は」
母が言った。
「とりあえず、仕事が終わってからになるから、夜の…そうね、七時や、八時位に病院から直行するわ」
「お母さん、病院じゃなくて介護施設でしょう」
「あ、そうだった」
ふう、と、愛理も母もため息を吐く。
そして愛理は母の表情を伺った。
祖母が倒れてから、もう五日。
毎日毎日、親戚中が集まって、遠方の人達はそれぞれ慶介の自宅や白百合家に泊まり、この自転車屋も臨時休業中である。
祖母は、何度もあの先生に検査をしてもらったけれど、一向に良くなる兆しは見えなかった。ただたまに、眉間にしわがよる。それさえ、希望に見えるほど、自分達は絶望していた。
皆、疲れている。
落ち着かないんだろう。
地面に足がついていないのに、走らなければならなくて。
大人が、それも自分の親がそんな疲れた顔をしていると、こちらに被害は特になくとも、精神的に見ていられなくなる。
「定期的に休みって、取れる?」
姉が尋ね、妹の母は唸った。
「最近うち、リストラがあったから。今皆てんてこ舞いなの。非常勤の人も毎日出ているし」
「そう…じゃあ…」
はあ、と、伯母は言いかけてため息を吐いた。
「私仕事、やめるわ」
え、と、そこにいた人間達皆が驚いた。
と言っても、疲れて眠たくて仕方の無い祖父と、何の仕事をしているか知らない愛理は無反応だったけれど。
「いいわよ、そんな」
と、母が言った。
「だって今請け負ってる子供たちどうするんだ?」
子供…?
愛理が小さく呟くと、慶介が同じく小声で説明をしてくれた。
「公民館借りて、昼間保育園みたいな事してんの」
へえ。
ああ、そう言えば、伯母はずっと幼稚園の先生をやっていたな。
「急遽跡継ぎ探して、引継ぎするわ」
伯母はけろっと言った。
「でも…」
「だって、そうするしかないじゃない」
伯母に言われ、母はしゅんとするように頷いた。
「愛理ちゃんは…無理か、仕事だものね」
「大丈夫だよ」
愛理は即座に言った。
「バイトの方は、休み大体通るし、お父さんの会社はかなり自由が利くから」
でも、いいわよ。
伯母はそんな事は言わない。
「そう? じゃあ、明日から私の助手ね」
「助手…?」
「そう、この家…」
伯母はぼうっと、辺りを見渡した。
「おばあちゃんのものが沢山あるから。少し整理整頓しないとね」
そういえば、昔から祖母は買い物が好きで、そのくせ捨てられない人だった。
「ちょっと来て」
伯母に手をひっぱられ、愛理は二階に上がった。
恐ろしく寒い。
「伯母ちゃん、寒いよ」
「古い家だからねえ。暖房つければましになるわよ」
到底マシになるとは思えない、古い冷暖房機が、部屋の隅についていた。
「ほうら。沢山あるでしょう」
と、伯母はまるで自慢でもするかのように部屋を見せた。
「うわ」
思わず息が出る。
部屋というよりも、物置部屋である。
一階へ戻ると、慶介が笑った。
「無理だったら、断った方がいいよ。うちの母さんは強引だから」
「なによ、慶介。あんた若い子には優しいのね」
言われると、慶介は急いで首を振って見せた。
「そう言う訳じゃないけど…」
「ま、それじゃそう言う事で」
伯母の来る日が決まってないぞと思っていると、伯母は言葉を続けた。
「私は毎日、病院行くわ」
一同はまるで殿にお辞儀をするかのように、深く頷いた。
第十二話
伯母は先生に頼み、説明室を借りたらしい。母や他親戚達はみんなそこで親族会議を開いている。
カサ…と、音がした。
ハッとして顔を上げると、ベットの向かい側の慶介が、おにぎりを食べていた。
「愛理ちゃんも食べる?」
「ん…うん。食べようかな」
はい。
おにぎりを渡され、愛理は包装を解いた。
「皆、食べてないだろうな」
慶介は苦笑しながら言った。
「そうね…なんか、ちょっとびっくりしちゃったな」
ぱくりとおにぎりを一口食べ、愛理はもぐもぐと口を動かした。
あまり、味が感じられない。
「ばあちゃん、早く起きないと。皆餓死しちゃうよ」
慶介は冗談めかして言う。
しかし祖母の顔がぴくりとも動かないのを愛理は見て、深くため息を吐いた。
その時、先生が来た。
あ、と、二人は驚いて急いでおにぎりを飲み込んだ。
「げほ」
愛理が咽に詰まらせた。
慶介が急いで水を渡し、愛理はごくごくと飲んで、気管に入れて、さらに咳き込んだ。
「げほ、ごほ」
先生は思わず笑った。
「ゆっくり、どうぞ」
「す、すみま…げほ」
先生は余計笑って、何度も頷いた。
慶介に背中を叩かれ、やっと収まって、愛理はホッと息を吐いた。
「すみません」
慶介が代わりに謝る。
「いえいえ、ちゃんと食べる事はいいことですから」
「はい」
辞色が優しい感じの先生だった。
よかった、と、愛理は胸をなでおろした。
今、親達の救いと言ったら、この先生の人間性くらいだろうから。
「皆さんもしっかり食べないと。本当に、ありますからね。一人が倒れて、ショックで何も食べないと、さらに周りの人が倒れて、皆苦しい思いをしてしまいます」
「そうですか…」
慶介は頷いた。
「ほら、やっぱり食べないといけないんだよ。愛理ちゃん」
「そ、そうですね…ゲホ」
ふふ、と、先生は笑った。
そして彼は小さな目をさらに細めて、優しげな口調で言った。
「こういうものは、青天の霹靂と言ってね、運命ですから」
あまりにも、思いやりを感じさせる声だった。
愛理と慶介は思わず、その言葉を反復した。
「青天の、霹靂…」
どんな意味だか分からない愛理をよそに、慶介は深く頷いた。
「こちらも、全力を尽くします」
「ありがとうございます」
ま、と、先生は明るい声で言った。
「お母さん達にちゃんと食べさせてあげてね」
「はい、お気遣いありがとうございます」
二人が頷くと、先生はにこりと笑って出て行った。
出て行くと、愛理は直ぐに慶介に尋ねた。
「けいちゃん。青天の霹靂ってなに?」
「ああ」
彼は言いながら椅子に腰を下ろした。
「晴れ渡った空から、突如落ちてくる雷。つまりふいに起こる変化、変動って事」
「ふうん」
「運命だから、という意味。何が原因か、何がどうなのが悪いのか、とかさ、そう言う事を考えて悔やむ事はなく、ただ神様が作ったふいに起こる運命なんだと言う意味で、先生は言ってくれたんだと思うよ」
「そうなんだ…なんか、すごい、いい先生ね」
「うん。よかったな、ばあちゃん」
慶介が言うと、ぴくりと、何かが動いた。
眉間だった。
眉間に、しわがよっていく。
「聞こえたのかな」
愛理は黙って、その眉間を見つめていた。
そうか。
運命か。
なら、後は神に願うしかないのだろう。
この一週間、何も起こらないように、と。
青天の霹靂。
優しいのに、切なくて、泣きそうな響きだった。