病院の廊下は、独特の臭いがする。薄暗いエレベーターに乗り、里美のおじいさんと一緒に地下1階にある喫茶店に向かった。午前中だからか、店内に人はまばらだ。おじいさんは、迷うでもなく一番奥のテーブル席に座った。
「いらっしゃいませ」
水の入ったグラスを2つテーブルに置き、ウエイトレスが二人を見る。
「いつもので」
ウエイトレスは微笑むと、伝票に何か書き込んでいる。
「じゃあ、私もそれで」
「アメリカン2つでよろしいですか?」
「はい」
咄嗟に返事をしたものの、私はメニューをちらっと見た。コーヒーは、小さい頃に母の飲みかけを一口飲んで以来、一度も飲んだことがない。あの口いっぱいに広がる苦味が、どうにも美味しいと思えなかった。メニューの紅茶の文字に目が吸い寄せられる。
「コーヒーで良かったのかい?」
「ええ、いつも大体コーヒーですから」
ニコッと微笑むと、メニューから視線を逸らした。今日はおじいさんの話を聞きに来たのだから、好き嫌いなど言っていられない。運ばれたコーヒーに、フレッシュを2つ、砂糖を2杯入れてかき混ぜると、まず一口を押し込んだ。飲めなくはない、かな・・・。おじいさんは、香りを楽しむように目を細めている。話を切り出そうか迷っていると、カップを置いたおじさんが私を見て口を開いた。
「15のときだった。3つ離れた兄がいてね。家は、早くに親父を亡くして、兄貴が親父代わりに家族を支えていたんだ。私は体が小さかったから、喧嘩も弱くてね、何一つ兄貴には勝てなかったんだよ。そうだな、何もかも。兄貴を尊敬しながら、どこか心の片隅ではうらやましさもあったんだろうな。何でも真似をしては、敵わぬ自分を恨んだこともあったよ」
おじいさんは、昔を懐かしむように苦笑した。つられて私も口元を緩めたが、どんな表情をしたらよいのか、自分でも分からずにいた。おじいさんは、コーヒーを一口、啜るように飲むと、話を続けた。
「その年の夏だった。とても暑い日だった。裏の林で鳴く蝉が五月蝿くてねえ、山から取って来た桑の葉を何キロも担いで、畦道を歩いていたんだ」
おじいさんの15の頃・・・。私の生まれるずっとずっと前の話。蚕でも飼っていたのかな・・・。私の小さい頃は、桑の実を食べることが一つの楽しみだった。なんとも言えないほのかな甘さ。両手いっぱいに実を摘み、鬼ごっこをしながら一つずつ口に含んでは、茎だけプッと拭き出す。数粒残った桑の実を、ズボンのポケットに大事に取っておくと、ズボンが鮮やかな紫に染まり、よく母に小言を言われたものだった。
また一口コーヒーを飲み、おじいさんは続けた。
「首にかけた手ぬぐいで汗を拭き、あとどれくらいかと家を見ると、おふくろと兄貴が立っていた。おふくろは泣いているようだった。・・・いや、そう見えただけかもしれない。前にも後にも、おふくろが泣いた姿は見たことがなかったからなあ。後で聞いて分かったんだが、兄貴は志願して戦争に行くことになったんだ。近所でも、兄貴の同級生の多くは戦争に行っていた時代だ。別におかしい話じゃないし、いつ徴兵されるかも分からなかった。ただ、どうして兄貴が自ら志願したのか、それが理解できなくてね、数日は兄貴とろくに口もきかなかった」
おじいさんは、眉をしかめ、深くため息をついた。
戦争の時代、話にしか聞いたことのない時代を、この人は生き抜いて来たのだ。私は、幼い頃祖母から聞いた戦争の話を思い出しながら、おじいさんの生きて来た過去の日々に思いを馳せた。でも、いくら思いを馳せても、私には想像することしかできない。それでも、少しでもおじいさんに近付きたくて、知りたくて、その言葉の一つ一つを噛みしめながら、先に続く言葉を待った。