「兄貴が出兵する日の朝、私はまだ暗いうちに目が覚めたんだ。台所から、襖を通してかすかに光が漏れていた。そっと襖を開けて光の先を覗くと、おふくろが餡子を丸めて饅頭を作っていた。兄貴は饅頭が好きでね。兄貴に持たせてやるつもりだったんだろう。当時は、いつB29に爆撃されるか分からなかったから、夜は電灯に黒い覆いを被せて過ごさなくちゃならなかった。薄暗い台所で、手元だけ灯る明かりを頼りに饅頭を丸めるおふくろの背中が小さく見えてね、無性に兄貴に腹が立ったんだよ。隣でいびきをかいて寝ている兄貴の胸ぐらを掴むと、思いきり殴った」

 私は、何気なくかき混ぜていたスプーンをカップから出し、ソーサーにそっと置いた。

「兄貴は飛び起きて、私の胸ぐらを掴み返すと、睨みつけて手を離した。そして、布団の上にあぐらを掻き、話し始めた。お前やおふくろにはすまないと思っている。だが、どうしても行かなくてはならない。そう言っていた。その目には、変え難い決意がこもっていた。私は、何も言えなかったよ」

「それで納得したんですか?」

 おじいさんは、私の目を見て静かに笑った。

「納得か、もちろん出来なかったさ。兄貴は人一倍責任感の強い男だった。日本国民として、家族のためではなく、御国のために生きる、いや死ぬことを選んだのだろう。その決意に、当時の私は何も言えなかった。ただそれだけのことだ」

「御国のためって・・・、自分の命よりも、家族よりも大切なことなのでしょうか?」

「そういう時代だったのだ。あなたのような若い方には、想像もつかんだろうが」

 私は、死を覚悟してまで自分以外の何かのために生きたことなどなかった。いや、自分のためにすらそこまでの信念を持ったことがない。

「私がおじいさんだったとしても、何も言えなかったかもしれません」

「いや、いいんだ。止めたとしても、やはり兄貴は行っただろうからね」

「それで、お兄さんは・・・」

「戦死したよ。おふくろは、あのときに饅頭をもっと持たせてやれば良かったと、写真を見るたびにいつも言っていた。持って行かれる荷物も限られていたし、そう沢山も持っていかれなかっただろうに。そのことばかり繰り返していたよ」

「そうだったんですね・・・」

「兄貴が、一度だけ手紙をよこしたことがあってね。おふくろ宛の手紙が一通と、もう一通、隣村の志乃という女性に宛てた手紙が同封されていた。私には、たった一行、この手紙を彼女に届けてくれとだけ書かれていたよ。まったく、勝手なもんだ」

 コーヒーはすっかり冷めていた。それでもおじいさんは、美味しそうに最後の一口を飲み干した。

「その手紙は、渡しに行ったんですか?」

「そのことなんだが・・・」

 おじいさんは、通りかかったウエイトレスを呼び止め、コーヒーのお代わりを注文した。

「あの、私は紅茶を」