お久し振りです。亀更新で申し訳ありません。

 

 映画『マイケル』が遂に今月公開され、最初は不安と期待が半分半分でしたが、結局何度も観に行く程ハマってしまいました。

 

 リアルタイムで正確な情報を持つ長年のファンの方々には怒られそうですが、これは自分のように没後にマイケルを知ったファンや、マイケルを全く知らない世代の人々に向けて作られた、非常に愛のある作品だと思います。

 

 何度も観賞する度に細かい発見があり、そちらも見応えがありましたが、その中でも真っ先にハッとしたのが「ディズニー」でした。自分はマイケルと並行してディズニーの作品やテーマパークが大好きです。そのため、マイケルもまたディズニーを愛好していた事を映画でもさり気なく、しかし何度も描写していたために、「ディズニー好きとして映画マイケルを観る」という視点が生まれてしまったのです。

 

 自分自身、ディズニーの全てを完璧に把握している訳ではなく、より正確で深く知見に富んだディズニー好きの方々は数多くいらっしゃるため、自分がディズニー好きの視点で映画を観てその見解を書くなど、浅はかで二番煎じに感じられるかもしれませんが、どうしても書きたくなったので、忘れないうちに文章で留めておこうと思った次第です。あまりに情報量が凄まじいので、一つ一つに分けて順次投稿します。

 

 という訳で、ディズニー好きの自分の視点から観た映画マイケルについて、思った事をまとめていきます。映画のネタバレや不正確な箇所がありますので、もし間違っていたらすみません。

 

ピーターパンとマイケル

 

 ここでは多くの方が想像するピーターパン、即ちディズニー版のピーターパンに触れながら書いていきます。マイケルがピーターパンを愛好していたのは有名ですが、今回の映画に登場したピーターパンの絵本は、恐らく原作となるジェームス・マシュー・バリューの戯曲を絵本化したものかな、と。ピーターパンの書籍は多く存在し、中には原作者が手掛けた児童文学版もあります。ただ、個人的に驚いたのは、絵本のキャラクターデザインが1950年代に公開されたディズニーの長編アニメ版に準拠している所でした。つい最近、金曜ロードショーで放送されていたのも記憶に新しいですね。実際にあの絵本があったかどうかは不明ですが、キャラクターのビジュアルをディズニー版に寄せる事で、「ピーターパンだ!」とすぐに分かるのが嬉しい所です。(なお、ピーターパンに限らず、ディズニー版に準拠したキャラクターデザインの絵本は沢山存在しています。ディズニーは誰もが知る物語を映画化する事によって、今を生きる我々にも親しみやすくなるよう物語を深堀りして映像化し、尚且つ原作に多大なリスペクトを払って作品を制作しているって凄いですよね)

 

 ディズニー好きとして思う所があるとするなら、結論からいうと、自分は「ピーターパンほど誤解されている作品はない」と勝手に思っています。ピーターパンのキャラクターや大まかな物語の流れを知っていても、その全てを正確には知らない方も多いという事です。これはディズニー好きを拗らせた自分の想像にしか過ぎず、論理が飛躍しすぎ、一般的な見方ではない可能性が高いというのは重々承知しております。しかし、特に現在はピーターパンそのものが表面的なイメージで見られがちな傾向があり、全体像を深く理解している人が居たとしても語れる人がコアな人々に限られている雰囲気を感じる事がしょっちゅうありました。自分はそこにマイケルを重ねてしまったのです。

 

 ピーターパン?あの緑色の服を着た空飛ぶ少年でしょ?いつも妖精のティンカーベルが一緒でしょ?永遠の子供でしょ?ネバーランドでロストキッズと遊んで海賊と戦ってばかりなんでしょ?どうせただの子供向けのおとぎ話でしょ?

 

 そんな風に思われると、「そうなんだけどそれだけじゃないんだよなぁ…」と言いたくなる気持ちが沸き上がってしまうのです。

 

 マイケルがピーターパンを愛したのは、子供の夢や好奇心、理想をそのまま絵に描いたようでありながらしっかりと作り込まれた世界観が成り立っていたのも一役買っていたのでは、と思っています。ピーターパンの世界はファンタジーですが、結構ディティールが凝っているのです。ネバーランドは右から二番目の星に所在する島で、島には海賊が占拠する海、人魚の入江、先住民の集落、ピーターと彼の仲間のロストキッズ(少し前まではロストボーイズと呼ばれていました)の隠れ家等々があり、ほぼ全てにユニークな名前がつけられていて、何処に何があるのか、地図にもはっきりと記されています。(完全に余談ではありますがディズニー版では妖精が暮らす谷も存在します。ティンカーベルが主役のスピンオフ作品にて新たに描写されたものですが、よりネバーランドの深堀りがなされており、個人的に大好きです)

 

 キャラクターの設定も、ディズニー好きとしてのフィルターを通せば何となく筋が入ってしまいます。繰り返しになりますが、これはディズニー好きを拗らせた自分の想像にしか過ぎません。幼少期のマイケルがベッドでピーターパンの絵本を読む場面で、フック船長の挿絵にジョセフの名前が(恐らく落書きで)書かれていて、一見すると親子の対立構造を示唆するように見えます。しかし、実際のフック船長の描かれ方を考えると「ジョセフはヴィランではない」という事が明確で、寧ろ割と理にかなっているのです。

 

 ディズニー版ではそれが顕著で、大人から見たフック船長はある意味、味のある憎めないキャラクターだったりします。普段のフック船長はエレガントで紳士的(と持て囃されている)ですが、ピーターパンに固執しており、彼の事になると態度が豹変。そんな船長に従う海賊達は内心呆れており、一番の部下であるスミーでさえもピーターパンに拘る船長を窘める描写があります。更には自分を食べようとするワニがやって来ると、怖くて助けを求めてばかりの情けない姿を見せたりと、良くも悪くも「子供から見た大人」を体現しているかのように感じられるのです。ところが、大人になってからピーターパンを観ると、寧ろ子供であるが故に純粋過ぎるピーターパンに振り回されてばかりのフック船長に同情し、肩入れしてしまう人々が現れるのもまた事実。要するに、ピーターパンは子供と大人で見方が変わってしまう側面があるのです。

 

 自分個人としては、フック船長同様に、子供の純粋さを拒む存在として、ヒロインのウェンディのお父さんであるダーリング氏を思い浮かべました。寝る前に遊んでばかりの子供達を叱りながらピーターパンの存在を口で強く否定するものの、ネバーランドでの冒険から帰って来た子供達と共に海賊船の形をした雲を見つけると、目を輝かせて「まだ子供だった頃に見た事がある」と打ち明けるお父さんです。自分は観る度に、きっとダーリング氏も子供の頃にピーターパンに会った事があるのかもしれない、という事を想像してしまいます。

 

 どんな大人もかつては子供だった事。大人になるにつれて、かつて子供だった大人はそれぞれの場所で現実を生きるしかなくなってしまう事。現実に適応するにつれ、夢を信じる心も純粋さも隅に追いやられ、まるで昔は子供だった事さえすっぽり抜けた感覚に陥ってしまうというのは、自分自身も社会人になってから痛感しました。結局のところ、良かれと思って純粋さを阻んでしまう大人というのは、本当の子供や子供の心を大切にしている人にとって、時には「邪」に映ってしまう事もあるのではないかと思うのです。自戒。

 

 マイケルから見たジョセフはフック船長であり、ダーリング氏でもあるのだと捉えました。だからこそ、ディズニー好きの視点を以てしても、ジョセフはヴィランではないと思うのです。どのみち彼らは、身を削ってそれぞれの現実に適応する大人になる道を選んだので…。

 

 うわ~どうしよう、もう一回ピーターパン観たくなってきた。次にディズニーシーに行ったらネバーランドアドベンチャーのDPAを買わなくては…。

 

(これまた完全に余談なのですが、東京ディズニーシーにあるピーターパンのアトラクションで、「いつまでも子供のままでいてね」という台詞があります。この台詞で大人のゲストの殆どが号泣したのは、きっとそういう事でしょう。マイケルに限らず、大人には皆ピーターパンが必要な世の中になった証拠だと考えると、切ないです…)

 

 さっきからマイケルどころかピーターパンの話しかしてないじゃないか!本題に戻せ!となりそうなので、最後に最も書きたかったマイケルとピーターパンについて。繰り返しになりますが、これはディズニー好きを拗らせた自分の想像にしか過ぎません。先程「ピーターパンほど誤解されている作品はない」と書きましたが、マイケルにも同様の意見があると思われます。しかし、映画マイケルを観た事によって、マイケルのピーターパンへの思い入れはとても人間味のあるものに感じられ、ディズニー好きとしては勝手に報われた気分にもなったのです。「一人でディズニーランドに行くとかありえない、一体何が楽しいんだ」と普通に言われた事がある身なので…。

 

 ともかく、劇中のマイケルとピーターパンの結びつきは、「孤独からの逃避」の他にも「誤解される身である事」という見方も出来そうで、しかしながら何と言っても「自分の光を信じ続ける事」「その光を誰にも自分にも他者にも奪わせない事」「その光を解き放って生きていく事」を真っ直ぐに貫いた結果、運命を切り開き、音楽で大衆の心を一つにする壮大なヴィジョンを実現させたのでは、と思いました。「」について言及するとしたら、裏を返せばという枕詞で「そうする事でしか生きられない」という風に考える人も居るかもしれません。ピーターパンの影も、時々本人から離れて行動してしまう事があり、アニメでは彼が置いてきてしまった影を大事に取っておいたウェンディに縫い付けて貰っています。でも、それを「可哀想」などと自分は思えません。それはマイケルの生き方を踏み躙りかねない感情だからです。光も影も、マイケルという素晴らしいエンターテイナーを構成する人間としての大切な一部だと、ディズニー好きを拗らせた自分は映画を観て強く実感しました。

 

 こんな感じでしょうか。本当にもう言語化が難し過ぎるので、もう100回は調べまくった方が良いのかもしれませんね。ディズニー作品についてもっと詳しく深々と語れる有識者の方の意見もお伺いしたいものです…。次の記事では「ピノキオ」を取り上げたいと思います。長文乱文失礼致しました。