「さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いていかれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められた。」マルコ10:32
「イエスが先頭に立って歩いていかれた」
なんて、幸せな一行だろう。
「イエスイエスは再び十二弟子をそばに呼んで…」
特別にそばに呼んでもう一度、大切な話をされたんだ。
人々が、自分を死刑に定め、十字架につけること。
あざけられ、つばきをかけられ、むちうたれ、殺されること。
しかし、三日目によみがえること。
なのに、弟子たちは、自分勝手な頼み事、自分の栄光のことだけを考えていた。
イエス様は、悲しかっただろうな。
でも、そんな弟子たちの心をも知ってて、愛されたんだ。
そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。
「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは、彼らを支配し、また、偉いひとたちは彼らの上に権力をふるいます。
しかし、あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
あなたがたの間で、人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。
人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分の命を与えるためなのです。」
マルコ10:42~45
解説から
イエスが追い求めた座は、しもべの道と十字架です。
神のしもべは、自分の不自由さや損害、犠牲などを甘受します。イエスがすべての人のためにご自分のいのちを贖いの代価として与えた十字架こそ、もっとも偉大なしもべの道です。
「贖いの代価」(ギリシャ語:ルトゥロン)は、奴隷や戦争捕虜を自由の身にするために支払う値を意味します。相手の自由のために自分を犠牲にする人が、神の国のかしらです。しもべとして仕えることが、神の国では最高に価値ある姿です。
この世と逆だな。
偉くなりたいときは、一生懸命がんばって、人に認められる結果を残そうとする?
競争で、人を蹴落とそうとする?
でも、イエス様は、まったく逆のことを言うんだ。
あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
あなたがたの間で、人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。
これが、神の国では、最高に価値ある姿であり、一番の栄光。
だれも見ていなくても、神様は見ていて下さる。
だから、神様に評価されようよ。