WingMakerのブログ

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天忠党支援者・大日本皇道会支援者・重要人物たち

 

島津斉彬・薩摩藩十一代藩主→

島津斉彬 - Wikipedia

江戸時代後期から幕末にかけて活躍した薩摩藩主。斉興が家督を譲らず、お由羅騒動を経て嘉永4年(1851年)に藩主となる。富国強兵を目指し、洋式造船や反射炉建設などを推進。西郷隆盛や大久保利通を登用し、幕政改革にも積極的に関与。安政5年(1858年)、井伊直弼と将軍継嗣問題で対立。藩兵を率いての上洛を計画中に急死した。死因はコレラとされるが、陰謀説もある。

 

12代 島津忠義の側室 山崎寿満子の子 島津清子 1871年生 黒田長成と結婚

黒田長成 - Wikipedia

福岡藩最後の藩主の長男として1867年に生まれる。12歳で家督を相続し、東京で生活を始めた。慶應義塾に学んだ後、ケンブリッジ大学に留学し学士号を取得。1889年、宮内省に勤務したが翌年に辞任。1892年、貴族院議員となり、約30年間副議長を務めた。書や漢詩を愛し、多くの作品を残した。秀吉や菅原道真を顕彰する活動に従事し、黒田家の名宝刀を明治天皇に献上。晩年は枢密顧問官を務め、1939年に薨去した。弟の黒田長敬は大正天皇の侍従。墓所は東京の青山霊園にある。

 

12代 島津忠義の側室 山崎寿満子の子 島津充子 1873年生 池田詮政侯爵と離婚・松平直亮伯爵と再婚

松平直亮 - Wikipedia

日本弘道会副会長、同会長、出雲育英会会頭、育英会総裁、宗秩寮審議官、帝室博物館顧問などを務めた

 

12代 島津忠義の側室 山崎寿満子の子 島津知子 1875年生 徳川達孝伯爵と結婚

徳川達孝 - Wikipedia

徳川達孝

明治期から昭和にかけて活躍した宮中官僚・政治家。田安徳川家第9代当主で、正二位勲一等伯爵を授けられる。兄・徳川家達が徳川宗家を継承した後、田安家の当主となり、父の死後に家督を相続する。明治22年(1889年)にはヨーロッパ視察を行い、貴族院議員や侍従次長、侍従長を歴任。十五銀行の倒産などで経済的に困窮し、邸宅を慶應義塾に売却。野球に熱中し、自宅に運動場を造成し野球クラブを組織するなど、スポーツにも積極的だった。昭和16年(1941年)に75歳で死去。墓所は谷中霊園寛永寺墓地。

 

12代 島津忠義の側室 山崎寿満子の子 島津俔子 1879年生 久邇宮邦彦王妃

久邇宮邦彦王 - Wikipedia

久邇宮邦彦王は、明治6年(1873年)に生まれ、日本の皇族であり陸軍軍人としても知られる。明治20年(1887年)、父の後継者として定められ、学習院を経て陸軍士官学校を卒業。日露戦争に参加し、歩兵少佐に進級。功四級金鵄勲章を受章した。その後、歩兵第38連隊長、第15師団長、軍事参議官などを歴任。第一王女の良子女王の婚約問題では、宮中某重大事件と呼ばれる騒動に巻き込まれたが、最終的に良子女王は昭和天皇の皇后となる。妻は旧薩摩藩主・島津忠義の娘であり、3男3女をもうけた。邦彦王は1929年(昭和4年)に没した。

香淳皇后 - Wikipedia

香淳皇后は、昭和天皇の皇后として日本の歴史に名を残した人物。1924年(大正13年)に昭和天皇と結婚し、2男5女をもうけた。昭和天皇の即位に伴い、1926年(昭和元年)に皇后となり、62年間その地位に在った。昭和の激動期を夫と共に過ごし、国民から親しまれる存在であった。戦後は社会変化に対応し、公式行事や国際親善に積極的に参加。2000年(平成12年)に97歳で崩御し、香淳皇后と追号された。歴代皇后の中で最長の在位期間を誇り、長寿の象徴ともなった。

 

12代 島津忠義の側室 山崎寿満子の子 島津正子 1885年生 徳川家正公爵と結婚

徳川家正 - Wikipedia

徳川家正

東京府で生まれ、東京帝国大学法科大学を卒業後、外務省に入省。シドニー総領事、カナダ公使、トルコ大使を歴任し、1937年(昭和12年)に退官。父の死後、公爵を襲爵し貴族院議員となる。1946年(昭和21年)、最後の貴族院議長に就任し、貴族院と華族制度の廃止を見届けた。心臓病のため東京都で死去。正二位に叙され勲一等旭日大綬章を追贈される。妻は島津忠義の十女・正子で、天璋院の遺言によって結婚が決められた。長男が早世し、長女の子である恒孝を養子に迎え、後に徳川宗家第18代当主とした。

 

12代 島津忠義の側室 菱刈久子の子 島津忠備 1891年生 島津忠備男爵となる・キシライト監査役

 

12代 島津忠義の側室 菱刈子久の子  島津為子 1897年生 徳川頼貞侯爵と結婚
徳川頼貞 - Wikipedia

徳川頼貞

紀州徳川家第16代当主。音楽学者、政治家として活躍。西洋音楽を日本に紹介し、約2万点の楽譜を「南葵音楽文庫」として和歌山県立図書館に寄託。貴族院や参議院議員として外交に貢献。ユネスコ国会議員連盟会長などを歴任し、日本のユネスコ加盟に尽力。フィリピンの竹製パイプオルガンの修復にも貢献した。1954年に61歳で死去。葬儀は聖イグナチオ教会で行われ、遺骨は和歌山藩主徳川家墓所に埋葬された。

 

13代 島津忠重・公爵・島津興業会長の妻の徳大寺伊楚子(父:公爵 徳大寺実則)

徳大寺実則 - Wikipedia

徳大寺実則の父は徳大寺公純 - Wikipedia

子供・徳大寺実則・西園寺公望、中院通規、末弘威麿、住友友純

徳大寺実則は内大臣・侍従長

西園寺公望は内閣総理大臣

中院通規は陸軍步兵大尉

末弘威麿は朝日生命(現在の大同生命保険)の監事・財団法人立命館理事。

住友友純は東山天皇の男系7世子孫、住友15世をつぎ、隆麿を改め、住友吉左衛門友純と称した。

 

13代 島津忠重の三男 島津矩久 1917年生 柳原博光伯爵の娘柳原行子と結婚

柳原博光 - Wikipedia

東京府で生まれ、海軍機関学校を優等で卒業後、海軍機関少尉として任官。巡洋戦艦「伊吹」分隊長や機関学校教官を経て、イギリス駐在を経験。帰国後、連合艦隊参謀やジュネーヴ会議随員などを歴任。1931年(昭和6年)に機関大佐へ昇進し、1937年(昭和12年)には海軍少将に進級。1941年(昭和16年)には海軍中将となり、第1海軍燃料廠長として太平洋戦争を迎える。その後、機関学校長や舞鶴分校の分校長を務めた。戦後は帝国石油副総裁を務め、養父の死去に伴い伯爵を襲爵。1947年(昭和22年)には公職追放仮指定を受けた。

 

13代 島津忠重の四男 島津斉徳 1919年生 柳沢保承伯爵の娘柳沢佐久子の婿養子になるが離婚
柳沢保承 - Wikipedia

柳沢統計研究所総裁、日本錫工業取締役会長、太平洋海上火災保険取締役などを務めた

 

13代 島津忠重の長女 島津経子 1913年生 島津忠済公爵の子島津久大と結婚
島津忠済 - Wikipedia

島津忠済

島津久大 - Wikipedia

島津久大

東京生まれの外交官。東京帝国大学を卒業後、外務省に入省。イギリスや中華民国での勤務を経て、戦後は賠償庁次長や外務省政務局長を歴任。ニュージーランド、パキスタン、スペイン、タイ、カナダ、中華民国の特命全権大使を務めた。退官後、日本国際問題研究所理事長に就任し、1974年には初代迎賓館長に任命された。1980年、勲一等瑞宝章を受章。1990年に84歳で死去。

 

14代 島津忠秀・島津興業会長→

島津忠秀 - Wikipedia

東京府で誕生し、旧制学習院高等科から京都帝国大学理学部に進学。農林省に入省後、淡水区水産研究所でアユの生態解明や養殖法の研究を行い、河川部長・養殖部長・副所長を歴任した。退職後は島津興業の会長を務め、鹿児島大学水産学部で講義を行った。切手の収集家としても知られ、特に動物切手で世界的な存在だった。元夫人・昭子との関係は「昭和のノラ事件」として話題に。

妻:近衛昭子(父:内閣総理大臣 近衛文麿)

近衛文麿 - Wikipedia

 

◆9代 徳川斉昭 7代徳川治紀の子/8代徳川斉脩の弟
1800-1860 60歳没
徳川斉昭 - Wikipedia

江戸時代後期の大名である斉昭は、常陸国水戸藩の第9代藩主として藩政改革を推進した。藩校・弘道館を設立し、人材登用を図り、藩政改革を実施。西洋兵器の国産化や蝦夷地開拓を進めたが、仏教弾圧や幕府との対立により隠居させられた。幕末期には海防参与として幕政に関与し、強硬な攘夷論を唱えたが、開国を主張する勢力と対立し、最終的には蟄居処分を受けた。万延元年(1860年)に水戸で死去した。

■妻  有栖川宮吉子女王 有栖川宮織仁親王の娘

 

有栖川宮織仁親王 - Wikipedia

世襲親王家の有栖川宮第6代当主。最後の征夷大将軍徳川慶喜の外祖父。

 

9代 徳川斉昭の実子 徳川昭致 1837年生 15代将軍徳川慶喜となる
徳川慶喜 - Wikipedia

徳川慶喜

水戸藩主・徳川斉昭の子として生まれ、一橋家を相続し、後に江戸幕府最後の将軍となる。慶応3年(1867年)に大政奉還を行ったが、王政復古の大号令に反発、鳥羽伏見の戦いで敗北。維新後は静岡、東京で生活し、明治35年(1902年)に公爵となる。明治43年(1910年)に隠居し、大正2年(1913年)に薨去。優れた政治家であり、将軍在職中に江戸城に入城しなかった唯一の将軍である。

 

10代 徳川慶篤の前妻 有栖川宮幟子女王 有栖川宮幟仁親王の娘 
1835-1856
有栖川宮幟仁親王 - Wikipedia

神祇事務総督、神祇事務局督、神道教導職総裁、皇典講究所(現・國學院大學)総裁。有栖川宮韶仁親王(霊元天皇曾孫)の第一皇子。世襲親王家の有栖川宮第8代当主。

 

11代 徳川昭武の妻 中院盛子 公家中院通富の娘 

中院通富 - Wikipedia

幕末の公家であり、明治期に伯爵となった。内大臣・徳大寺実堅の二男として山城国京都で生まれ、中院通繁の養子となる。天保8年(1837年)に元服し昇殿。天保12年(1841年)右近衛権少将に任じられ、右近衛権中将、参議、権中納言を経て、慶応4年(1868年)権大納言に至る。安政5年(1858年)には日米修好通商条約の勅許案に関して案文の変更を求め、万延元年(1860年)には儲君祐宮の三卿に就任。慶応3年(1868年)に王政復古を迎え、参与などを歴任。1884年に伯爵に叙爵された。

徳大寺実堅の父は鷹司輔平 - 閑院宮直仁親王の第四王子

 

12代 徳川篤敬 10代徳川慶篤の子
1855-1898 42歳没
徳川篤敬 - Wikipedia

水戸徳川家第12代当主。陸軍士官学校を卒業後、明治12年(1879年)にフランスへ留学。明治16年(1883年)、養父の隠居に伴い家督を継ぐ。イタリア特命全権公使や式部次長を歴任し、明治26年(1893年)には大日本写真品評会会長に就任。帝国議会開設後、貴族院侯爵議員に選出され、死去まで在任した。墓所は常陸太田市瑞龍山。

 

12代 徳川篤敬の息子 徳川敬信 1897年生 一橋徳川宗敬伯爵となる
徳川宗敬 - Wikipedia

徳川宗敬

東京帝国大学農学部林学科を卒業後、宮内省帝室林野局で官吏として働く。ドイツ・ベルリン留学を経て、1934年(昭和9年)に伯爵を襲爵。1939年(昭和14年)に貴族院議員に当選し、1946年(昭和21年)には貴族院副議長に就任。日本国憲法施行により貴族院が廃止され、最後の貴族院副議長となる。1947年(昭和22年)には参議院議員に当選し、サンフランシスコ平和条約の全権委員を務める。1966年(昭和41年)、神宮大宮司に就任し、1976年(昭和51年)まで務めた。神社界に貢献しつつ、文化放送協会会長など多くの役職を歴任した。1989年(平成元年)に膵臓癌で逝去。従三位に叙せられた。

 

13代 徳川圀順

徳川圀順 - Wikipedia

水戸徳川家第13代当主として生まれ、幼少期に家督を継ぐ。明治20年(1887年)、父がイタリア特命全権公使となり、母と共にローマで過ごす。帰国後、高等師範学校附属学校を経て学習院へ進学し、陸軍士官学校を卒業。明治39年(1906年)、『大日本史』を完成させ明治天皇に献上。陸軍歩兵少尉を務め、後に日本赤十字社社長、第12代貴族院議長を歴任。戦後、公職を辞し公職追放を受けるも、茨城県の山林管理に尽力。昭和42年(1967年)、財団法人水府明徳会を設立し初代会長となる。82歳で死去し、長男が当主を継承。軽井沢に建てた洋館別荘は現在、国の登録有形文化財に登録されている。

 

15代 堀河康隆の息子 堀河親家 侯爵花山院親家となる
花山院親家 - Wikipedia

明治から大正期にかけて活躍した華族で、貴族院侯爵議員を務めた。堀河家の七男として生まれ、花山院家の養子となり、1895年(明治28年)に侯爵を襲爵。満25歳となる1903年(明治36年)には貴族院侯爵議員に就任し、研究会に所属して活動した。さらに、大日本製菓の取締役としても経済界での役割を果たした。1924年(大正13年)、病により鎌倉の自宅で死去した。

 

秋月左都夫 釜山 韓国

釜山領事・8代 秋月左都夫 一等領事 明治29年5/3 - 29年

大日本皇道立教会第三代副会頭

安政5年2月24日生まれ。叢話20年6月25日歿。司法省法律学校卒。明治24年外務省入省。韓国・フランス・ロシア公使館書記官を経て、37年駐スウェーデン公使、その後駐ベルギー公使、駐オーストリア大使歴任。第一次世界大戦後の大正8年パリ講和会議では全権顧問をつとめた。
退官後は読売新聞社社長を務めた。

鈴木馬左也の兄。

読売新聞社の編集顧問(後に社長)、京城日報社長を務め、大日本皇道立教会副会頭でもあった。 政治家の古島一雄らとともに創価教育学会(創価学会の前身)の設立にも尽力した。

 

鈴木馬左也 - Wikipedia

第三代住友総理事である

別子銅山開坑200年祭に来賓として新居浜に招かれ、住友との最初の出会いをはたす。明治29年1896年、農商務省参事官を退官し、住友に入社、大阪本店の副支配人となる。

住友には、戦前独立した商事部門がなかった。第一次世界大戦が勃発し、経済界は非常な好況期を迎え、大正7年(1918年)11月に休戦協定が成立した後も、輸出はますます活況を呈し、貿易商社は大きな収益を挙げたので、多数の商社が続々と設立され貿易に乗り出していった。鈴木は、大正8年(1919年)3月、戦後の欧米の状況視察に外遊したが、その不在中に住友総本店幹部の間に、三井、三菱の隆盛に圧倒されていた状況もあって、住友も時流に乗って商事貿易に進出すべきであるとの意見が強まり「他所製品取り扱いの件」と題する、いわゆる商事会社設立構想の起案文書まで用意して、総理事の帰国を待った。

鈴木は欧米の視察を終えて帰途、大正9年(1920年)1月、上海に立ち寄った時、住友上海洋行(支店)の支配人が、商事会社を設立することの必要性を力説し総本店の空気を伝えた。しかし鈴木は、これに同意しなかったばかりか、帰国すると直ちに関係者を呼び出し、厳しく商事の禁止を申し渡し、さらに主管者会議の席上「住友は絶対に商事はやってはならぬ」と宣言した。これが大正9年(1920年)1月の「商社設立禁止宣言」であり、戦後、商社が開設されるまで、住友では商社開設が禁句になってしまった。三井・三菱が商いから身をたてたのに比較して、住友は別子銅山を中心に製造業で伸びてきた違いがあるのと、そもそも初代の住友政友が書き遺した『文殊院旨意書』に「人と物の仲介をするな」とあるため、商事部門に否定的だったためである。このため、昭和20年(1945年)に日本建設産業(現・住友商事)が設立されるまで、四半世紀ものあいだ住友では、商社開設はタブーとなった。

とはいえ大正期に「住友商事」が設立されていたならば第一次大戦終結後の恐慌によって損失を被った可能性が高く、他の財閥系商社(古河商事、久原商事、鈴木商店など)の経営破綻のケースを考えれば、鈴木の決断は妥当なものだったと評価する意見もある。

 

次女・由幾(1899年生) ‐ 中川路貞治(大阪チタニウム製造社長、明光證券社長)の妻。神戸高等女学校出身

四女・貞(1903年生) ‐ 中村四郎 (内務官僚)の妻。神戸高等女学校出身。

中村四郎 (内務官僚) - Wikipedia・・・三愛石油 (株) 常任監査役、鹿児島奨学会理事長などを歴任

三男・乾三(1905年生) ‐ 新聞記者。米国東部の学校を出てジャパン・タイムズ、朝日新聞に勤務、ニューヨーク在勤を経て外事部長となる。妻の昌子は兄と同じく志賀直温の娘で志賀直哉の異母妹。

子の鈴木琢二は文芸春秋社の編集者。

遠縁 鈴木定直(内務官僚)

 

古島一雄 - Wikipedia

玄洋社系の「九州日報」(福陵新報の後進)の主筆を1年半つとめ、後、日本新聞に復帰。明治41年(1908年)には、万朝報に移った。

玄洋社の頭山満と結んで孫文を援助し、辛亥革命を陰から助けた。

戦後、幣原内閣が組閣された際、入閣を要請されたが固辞する。また、昭和21年(1946年)5月に日本自由党総裁の鳩山一郎が公職追放となった際に、後継総裁の一人に擬され、鳩山ら自由党首脳に就任を懇請されるも、これも老齢を理由に固辞し、幣原内閣の外相だった吉田茂を強く推薦した。以後、占領期の吉田の相談役となり「政界の指南番」と称された。昭和27年(1952年)5月26日、死去。享年86。墓所は谷中霊園。  創価教育学会(創価学会の前身)の設立にも積極的な役割を果たしたことでも知られている。なお、作曲家

の田中公平は彼の曾孫にあたる。

 

秋月 左都夫の妻の兄は三島彌太郎 - 第8代日本銀行総裁・大日本皇道立教会第二代副会頭

三島彌太郎 - Wikipedia

 

秋月 左都夫の妻の妹は伯爵牧野伸顕夫人(牧野の長女・雪子は吉田茂に嫁いでおり、従って麻生太郎は玄孫にあたる)  

牧野伸顕 - Wikipedia

大久保利通は父、吉田茂は娘婿、寬仁親王妃信子と麻生太郎は曾孫にあたる。

在イタリア公使、オーストリア公使等を歴任

孫:伸和(伸通の長男。日東化学工業副社長)

曾孫:三井富美子(貞子の長女、三井之乗(男爵・三井八郎右衛門の四男)夫人。若葉会幼稚園園長)

曾孫:小林絢子(貞子の次女、元フコク生命社長・小林喬(小林中の長男)夫人)

玄孫:堀内詔子(貞子の孫、絢子の長女。富士急行社長・堀内光一郎(元通産大臣、自民党総務会長・堀内光雄の長男)夫人。衆議院議員、五輪担当大臣兼ワクチン担当大臣)

堀内詔子 - Wikipedia

孫:杉山淑子(伸通の次女。元ホーネンコーポレーション社長・杉山元太郎(杉山金太郎の長男)夫人)

曾孫:麻生太郎(和子の長男。政治家、第92代内閣総理大臣、財務大臣)

曾孫:麻生泰(和子の三男。実業家、麻生セメント会長) 

玄孫:麻生巌(泰の長男。実業家、株式会社麻生代表取締役社長)

曾孫:武見敬三(英子の長男。政治家)