裁判員裁判として初めて死刑の判断を委ねられた。

結論として判決は無期懲役。

テレビなどで専門家達も裁判員裁判でなくても無期懲役が出ていただろうと皆一様に判決の妥当性を語っている。

恒例になっている裁判後の裁判員の記者会見は撮影不可の条件で行われた。
自信の精神的疲労と被害者遺族の心情を考えてとの理由であるが、今回の判決に不満を抱く遺族に顔をさらして怨みを買いたくないのが本音のはずだ。
逆に死刑判決をした場合でも被告の親族から怨まれる事もありえる話しだ。


最近、裁判員経験者が実名で集会に参加している記事を読んだ。
無作為に選ばれた一般市民が一方で顔も名前も明かし一方では声をひそめる。
偶然自分が割り当てられた裁判の内容によって背負わされてしまう物が異なる不公平な裁判員裁判。

被害者や遺族は普通の裁判であれば判決に不服でも裁判官個人ではなく裁判所や検察に不満を抱くが裁判員裁判では間違いなく裁判員に対する感情が生まれてしまう。

特に今回は裁判員が死刑かいなかを判断する初めての裁判であったため、事件そのものの内容より裁判員にスポットが集中的に浴びせられた。
今後も死刑判決の可能性がある裁判員裁判でも同様の状況になり遺族の不満が見知らぬ隣人である裁判員に裁かれたと怨みに変わってしまうことはありえる。

本人が自ら名乗らない限り裁判員の素姓は匿名になっているが、傍聴席や記者会見でその場にいる人々には顔を見せており現代社会において匿名の密告などで容易に裁判員の素姓など明らかにされてしまう。

殺伐とした世の中で逆恨みによる事件が起こる可能性は高い。


裁判員裁判により検察・弁護そして裁判官も分かりやすい言葉や表現を使うようになった点は評価できるが、それはこの制度に関係なくすべき事でありきっかけになっただけである。

それ以外は無理矢理他人のプライバシーを覗かされ場合によっては日本人の大多数が一生見る事のない残虐に殺害された被害者の遺体写真まで見なければならない。

過去の判例ばかりにとらわれず『市民感覚』を裁判に反映させるのが目的であるが、見知らぬ人の遺体写真など見たくないのも『市民感覚』である。


先にも書いたが過去の判例を引き合いに無期判決は妥当なものだと言う論調がほとんど占めるテレビや新聞の報道を見ていると裁判員裁判は不必要だと言っているに等しいのではないだろうか。