ラドワセリニでシャルルマーニュと呼べないのは何故?


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コルトンの丘。道を挟んで右がラドワセリニ、左がアロースコルトン


コルトンの丘には、ラドワセリニ村とアロースコルトン村、そしてペルナンヴェルジュレス村という3つの村があります。


コルトンの丘といえば、コルトンが有名で、コルトンといえば赤ワイン。


しかし、コルトンの丘には白ワインの銘醸地があります。そこでは、白ワインを作る時にコルトンと呼んではいけません。コルトン・シャルルマーニュまたはシャルルマーニュといわなければなりません。


そこで、アロースコルトン村やペルナンヴェルジュレス村では白ワインのグランクリュの区画で、シャルルマーニュと呼称することが出来るのです。


ラドワセリニだけシャルルマーニュと呼ぶことができない


アロースコルトン村やペルナンヴェルジュレス村と異なり、ラドワセリニ村の白ワインの銘醸地では、コルトン・シャルルマーニュを作ることができますが、それをシャルルマーニュと呼ぶことは認められていません。コルトン・シャルルマーニュと呼称しなければいけないのです。


これは何故なのでしょうか。


「呼称の方法は明解かつ論理的」(ブルゴーニュのグラン・クリュ レミントン・ノーマン 白水社 126頁)と言われているグランクリュ・コルトンのAOCの制度ですが、この部分だけは、少し「論理的」ではないようにもみえます。


ラドワセリニではシャルルマーニュの呼称が認められていないというのは、ソムリエ試験やワイン・エキスパート試験でもよく出題されています。


このコルトンの丘をめぐる制度は非常に難しく、ソムリエの中に思い入れが強い方が多くいらっしゃることから、コルトンの丘の問題がよく出るといわれています。


この中で、何故ラドワセリニだけシャルルマーニュと呼べないのかについては、理由まで遡って記載されている文献は見当たらず、ソムリエ試験でも語呂合わせなどで丸暗記するしかない状況です。


そこで、これは何故なのかについて、検証して行きたいと思います。


ラドワセリニ村のワインはほかの村のワインより劣るから?


ラドワセリニでシャルルマーニュが認められないのは、何故でしょうか?


ラドワセリニ村のワインはアロースコルトンやペルナンヴェルジュレス村のワインより劣るからでしょうか?



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ジャスパー・モリスMWが、コルトンの丘のグランクリュの中で、特級と評価すべきとされた畑に色をつけました(ブルゴーニュワイン大全  白水社 271頁以下)。


黄色に塗られたところが白ワインのコルトン・シャルルマーニュ、赤色に塗られたところが赤ワインのコルトンの銘醸地です。


これをみると、アロースコルトン村のグランクリュの中で、ジャスパー・モリスMWに特級と評価されていない畑もあれば、ラドワセリニ村のグランクリュの中で特級と評価されている畑もあることがわかります。




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CLOS DES CORTONS FAIVELEY
CORTON GRAND CRU 1996
MAISON Lameloiseにて


CLOS DES CORTONS FAIVELEYは、FAIVELEYという名前が付いていることから、言うまでもなくFAIVELEYのモノポール(単独所有畑)です。


ここは、ラドワセリニのLe Rognet et Cortonの中にあります。



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Le Rognet et Cortonは、この図で黄色とピンク色をつけたところです。


Le Rognet et Cortonは、ラドワセリニで村の中で、ジャスパー・モリスMWが、コルトンの丘のグランクリュの中において、本当の特級と評価すべきとされた唯一の畑です。


ラドワセリニ村のワインは、素晴らしいワインであり、ラドワセリニ村のワインはアロースコルトンやペルナンヴェルジュレス村のワインより劣るなどとはいえないのです。




コルトン・シャルルマーニュと異なり、シャルルマーニュの呼称は特別な存在だから?


では、シャルルマーニュの呼称は、特別なものであるから、ラドワセリニでは、コルトン・シャルルマーニュの呼称はよいが、シャルルマーニュの呼称は認められないということなのでしょうか?


これも、違います。


もしも、コルトン・シャルルマーニュと比べて、シャルルマーニュの呼称が特別な存在であるのであれば、特別な畑で、今もシャルルマーニュというワインが作られているはずです。


しかしながら、現在では、シャルルマーニュというワインは作られていません。


シャルルマーニュを作ることができる畑では、コルトン・シャルルマーニュを作ることができます。


そのため、生産者はシャルルマーニュではなく、コルトン・シャルルマーニュを作っているのです。


シャルルマーニュよりも、むしろ、コルトン・シャルルマーニュの呼称の方が、大切な存在なのです。



訴訟の経緯によるもの


ラドワセリニでシャルルマーニュの呼称が認められないのは、その呼称を認める訴訟の経緯によるものです。


コルトンの丘のワインについては、沢山の訴訟がなされてきました。


昔、ラドワセリニ村とペルナンヴェルジュレス村のワインは、「コルトン」という名前で販売されていました。


1920年代、アペラシオンの線引きがなされた時に、両村は、この慣例を根拠に、自分たちの畑はアロースコルトンの一部であるとして、コルトンを名乗る権利を求めて裁判所へ訴えたのです。


●ラドワセリニとの訴訟
1930年判決がおり、ラドワセリニ村の28.71ヘクタールをコルトンと呼べる権利が認められました。


アロースコルトンは控訴し、その結果、ラドワセリニのLe Rognet et Corton以外はコルトンを名乗れなくなりました。


ラドワセリニは上告し、1942年に判決。ラドワセリニ村のLe Rognet et CortonのほかにLes Vergennesでのコルトンの呼称は認められることになりましたが、その他ではコルトンを名乗れなくなりました。


●ペルナンヴェルジュレスとの訴訟
更に、アロースコルトン村はペルナンヴェルジュレス村とも争いました。


この争いの中で、アロースコルトンは、ペルナンヴェルジュレス村のEn・Charlemagneがシャルルマーニュを名乗ることには同意するも、格上となるコルトン・シャルルマーニュの呼称使用には難色を示したのです。


1934年の第一審ではアロースコルトンが勝訴するも、ペルナン・ヴェルジュレスが上訴。1942年、最終的にペルナン・ヴェルジュレスの主張が通り、En・Charlemagneによるコルトン・シャルルマーニュの呼称使用が認められたのです。


●訴訟の争い方の違い
以上の訴訟の経緯は、ジャスパー・モリスMWのブルゴーニュワイン大全の記述を元に記載しています(白水社 269頁)。


この訴訟の経緯は、裁判の縮図を如実に表しており、興味深いです。


第一審の裁判所にて、まず、1930年のラドワセリニ村との裁判ではアロースコルトン村が敗訴。これに対し1934年のペルナンヴェルジュレス村との裁判ではアロースコルトン村が勝訴しています。


このときの方針として、アロースコルトン村は、ペルナンヴェルジュレス村との裁判のみ、ペルナンヴェルジュレス村のEn・Charlemagneがシャルルマーニュを名乗ることには同意した上で、コルトン・シャルルマーニュの呼称使用を争ったのです。


何故、シャルルマーニュを名乗ることにアロースコルトン側が同意したのかについては、前掲のブルゴーニュワイン大全においても、はっきりとした記述がないのですが、これは訴訟戦術によるものであると考えられます。


ラドワセリニ村での第一審敗訴をうけて、アロースコルトン側の弁護士の訴訟戦術として、ペルナンヴェルジュレス村との訴訟では、シャルルマーニュの呼称使用を認めて、コルトン・シャルルマーニュの呼称使用に絞って争ったことが考えられるのです。


完全敗訴よりは、一番の目的であるコルトン・シャルルマーニュの呼称を守ろうとしたのではないかと考えられるのです。


仮にシャルルマーニュの呼称を認めたとしても、シャルルマーニュの呼称は、実際は用いられておらず、損失としても大きいものではなかったという計算も働いたのだと思います。


これに対して、ラドワセリニとしても、まだ、訴訟が続いていたのですから、ペルナンヴェルジュレスとの裁判で、シャルルマーニュの呼称をアロースコルトンが認めたのなら、ラドワセリニにも認めるべきという主張をしたことも考えられます。


ただ、コルトンの丘のペルナンヴェルジュレス側は白ワインの銘醸地であり、シャルルマーニュの呼称を認められるかどうかは重要な話であったのだと思われます。他方、ラドワセリニ側は標高が高いところは白ワインの銘醸地ですが、低いところは赤ワインの銘醸地という、白赤両方のワインの銘醸地です。そのため、白ワインの呼称であるシャルルマーニュについては、ペルナンヴェルジュレスほど重要視されていなかったのではないかと思われます。


実際、ラドワセリニ村では、1級ワインであるにもかかわらずラドワセリニではなくアロースコルトンを名乗ることが認められている区画もあるのです。ここに、ラドワセリニにおいて、シャルルマーニュではなく「コルトン」の名称に強くこだわってきた歴史があるといえるのです。


結果、最終の裁判所において、ラドワセリニ村との訴訟では、Le Rognet et CortonとLes Vergennesの二つの畑でグランクリュ・コルトンを呼称出来ることが死守されたのです。


ラドワセリニには、「コルトン」の名称にこだわってきた歴史と訴訟があり、それ故に、コルトン・シャルルマーニュの呼称が認められる場所で、「コルトン」の名称が入っていないシャルルマーニュの呼称が認められていないのだと考えます。


法律は理路整然としたものと思われがちですが、人々の思惑や戦略の中で裁判がなされることから、必ずしも「論理的」ではない部分があるのです。


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ラドワセリニ村の中には、大きなコルトンの看板があります。


大きな看板を建てるくらいコルトンの名称にこだわってきたのではないでしょうか。


ラドワセリニでは、コルトンやコルトン・シャルルマーニュはよいがシャルルマーニュの呼称が認められていないのは、コルトンの大きな看板を建てるくらいコルトンの名称にこだわってきたため、「コルトン」を抜いたシャルルマーニュという呼称が認められていないのだと思います。


この看板には、訴訟続きであったラドワセリニの村人の想いが詰まっているように思います。





                       中   根    浩   二


*1は、Google mapないしそれに著者が加筆したもの