他者に惑わされない「心」 | 拓かれた時間の中で

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今日出会い、思い、感じたこと。一つでもよいから、「明日」の元気につながれば・・・。

オウム真理教事件

 先日、いわゆる「オウム真理教事件」で死刑判決を受けた13人に対する「死刑」が執行されました。

 改めて、この一連の事件で被害に遭われ、さらに現在も様々な後遺症に苦しまれている皆さまに対し、お悔やみ、さらには心からのお見舞いを申し上げます。

 特に「地下鉄サリン事件」は、私自身3回の東京勤務で、毎回利用していた「霞ヶ関駅」で発生し、同僚たちも出勤時間が多少ずれていたら、被害者として巻き込まれていただろうという方もいたからこそ、私自身にとっても震撼させられた事件でした。

 私は「ワイン文化史研究家」として、宗教史研究をその活動のベースに置いています。

 人間にとっての「宗教」とは、一体どういうものなのか。

 また、それがそれに関連する地域の「文化」に対して、どのような影響を与えるものなのか。

 さらには、なぜ宗教同士の対立が「戦争」や「破壊」という、狂気の世界へと人々を連れ去っていったのか。

 などなど、身近なことから、世界史的な広がりのあるものまで、自ら答えを導き出す際の「核」として、この問題と向き合ってきました。

 

「宗教」とは

 「宗教」とは、我々にとって、どのようなものなのでしょう。

 人類が他の類人猿と区別されるようになる、一つのメルクマールとして「宗教」との出会いを語る研究者は多いですし、「光」・「闇」や様々な見えるもの・見えないもの、聞こえるもの・聞こえないもの、感じるもの・感じることのできないものについての「意味」を考えようとする行為は、宗教の端緒になっていることは間違いありません。

 人類の長い歴史において、次第に意識されるようになっていったことは、「救い」であろうと私は考えています。

 自らの力ではどうにも解決することのできない「病気」「抑圧」「貧困」など、何らかの状況を解決するための「超越的な力」に期待し、それによって「救済」されることを願う。

 例えば、「ある宗教によって、私は不治の病から脱却することができた」と信じたのであれば、その救済が為に、人は特定の宗教に帰依することになっていくのでしょう。

 そもそも、「オウム真理教」が宗教なのかを考えると、仏教原理主義であり、その一点で宗教と考えてみることは、間違いではないものと私は考えます。

 

一歩道を踏み誤ると、実はだれもが加害者

 私自身が大学生(豊平にある北海学園大学)時代を送ったのは、1980年代初頭でした。

 ちょうど日本における「第3次宗教ブーム」と呼ばれる時代でもあります。

 地下鉄を利用して通学していた私は、北海道大学正門にほど近いところに存在する地下鉄「北12条駅」を利用していました。

 昼から夜にかけての通学時、「少しの時間でよいので、とても勉強になるビデオを見ませんか?」、「自己啓発に繋がるセミナーに参加しませんか?」といった勧誘に、ほぼ毎日直面し、地下鉄利用自体がウンザリする気持ちにさえなっておりました。

 勧誘方法が稚拙であり、相当胡散臭さを感じるものでもありましたが、毎日毎日声をかけられると、人間、ふとした心の隙間から、ちょっとだけなら・・・、と、そちらに参加してみようという気持ちになることもあることでしょう。

 

 少し横道にそれますが、その頃の私は、キリスト教の本質について個人的に勉強を重ねていて、「聖書に書かれていることを実践しましょう」と主張する「エホバの証人」を信じて布教に携わる人々に対して強い興味を抱き、約1年ほどその方々の中に入り、申し訳ありませんが「勉強」させていただいておりました。

 申し訳ないというのは、「真の信者にはならない」ということを彼らには宣言した上で、なぜこの人たちは、「聖書に書かれていることを実践」しようとし、輸血を拒否したり、熱心に一軒一軒の個別訪問を行うのか、その心情や何がそのような活動へと彼らを向かわせるのか、その心理を知りたいと考え、日曜日の2時間程度の「王国会館」での勉強会に参加させてもらっていたからです。

 彼らがそこに集うようになった契機や理由は、当然のことながら、それぞれまちまちでした。

 もともとキリスト教とは縁などなかった方も多数おりました。

 逆に、両親がエホバの証人なので、特に理由なくという若者もおりました。

 「エホバの証人」の思想のベースにあるものは、終末思想(ヨハネの黙示録)であり、聖書を信じて実践している彼らのみが、近く必ずやってくる終末に救済されるというものです。

 先ほど「救済」が、宗教の端緒となっていくことに触れましたが、救済される対象が「私」なのか、「私たち」なのか、あるいは「私だけ」なのか、「私たちだけ」なのか、そこを冷静に考えてみると、仮に「神」がいるのだとしたら、「神の御心の深さ」が推し量られる。これこそ、凄い大きな問題であり、私たち自身にとっても「宗教」と向き合う際に、必ずその教義について吟味すべき課題であることに気付かされます。

 

 横道が長くなりましたが、恐らく「オウム真理教」に入るときに、私と同じように「真の信者にはならない」と心に誓い、仏教の真理とやらを探ってみようという気持ちで入っていった方も少なからずいたのではないかと想像します。

 ある意味、私にとって幸いだったことは、仏教に対する深い関心を当時持ち合わせていなかったことに加えて、オウム真理教が本格的な活動を始めたのは1985年以降であり、もうそのときには「北12条駅」前での勧誘を受ける機会がなかったこと。

 実際のところ、「オウム真理教」では、脱退者が行方不明になるなどの事件も発生し、どの道を選ぶかによっては被害者どころか加害者になってしまう。

 それが、古今東西、あらゆる宗教を取り巻くひとつの側面なのかも知れません。

 

他者に惑わされない「心」

 日本国憲法は、思想、信教、宗教について、次のように定めています。

第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 

 「宗教」は、実際のところ「自己啓発セミナー」といった名称で我々に近寄ってくるというケースが、現代史において確認されています。

 私自身も重い心臓の病気で手術をしましたが、病気、経済的困窮、社会的脅迫、不安など、人それぞれの事情によって、自分の力だけではどうにもならない状況に置かれたときに、「救い」を求めたくなるものです。

 また、現在我が国の社会問題のひとつともなっている高齢者などを狙った「特殊詐欺」などもそうですが、心の隙を突いた「詐欺」というものも、宗教同様、長い歴史を持ち合わせて発生している行為です。実際、まさかこの人が「大物詐欺師」だったのか、という、驚くべき事象に遭遇したことも、私自身過去に経験として持ち合わせています。

 

 他者に惑わされない「心」。

 何よりこれが大切だと思いつつ、実は、これこそがとても難しい。

 結局のところ、不安や迷い、悩みといったことを、「身近に相談できる人の存在」というのは、やはり大きなものだと私は思います。

 この週末、高校の同級生と久しぶりに「深く語り合った」話題でもありました。

 まさに、そういう話題を語り合える「友」。

 大切にしたいものです。