梅花(メファ)が部屋を下がった後

翡翠(ピチュイ)は

水晶(スジョン)を呼んだ

「酒の用意を」

「行首(ヘンス)様 

今日はあの日ではありません」

「分かってる」

有無を言わせぬ強い口調に

「只今 準備を」

水晶(スジョン)は急いで厨へ向かう

行首(ヘンス)様が酒を口にされるのは

年に一度 

お父上の刑が執行され

お母上が後を追った日だけ

その行首(ヘンス)様が酒を所望された

(何があったのだろう)

水晶(スジョン)の胸に不安が押し寄せる




現王の世になり 亡父の汚名が雪がれ

王は多恵(ダヘ)に免賤の命を出したが

「悪意を持つ者の手に掛かれば

直ぐに剝ぎ取られてしまうしまう

身分など 今更どうでも良いのです」

両班に戻る事を拒み

《清流館》で

行首(ヘンス)を続ける事を選んだ

・・・それなのに

「恥ずかしい」 

翡翠(ピチュイ)は

自責の念に駆られていた

(なんて浅ましいのだろう

諦めていると言いながら

心の奥底では未練が渦巻いて

赫(ヒョク)様を諦める為 

誰かと添わせようなどと考えた私は

行首(ヘンス)失格だわ)




その日 妓楼の灯りは灯らなかった

「マンボ姐さん」

水晶(スジョン)は都の酒楼を訪ね

翡翠(ピチュイ)の異変を知らせた

「分かった 

翡翠(ピチュイ)は あたしに任せて
 
あんたは帰りな」 

次期行首(ヘンス)の肩をポンと叩く

「妓楼を頼んだよ」

「はい」

碧瀾渡(ピョンナンド)へ帰る

水晶(スジョン)を見送った後

「ちょっと 出て来る」

マンボ姐はチェ家の屋敷まで

馬を飛ばした

『もう 良いだろうよ

お前もあいつも 

さんざん苦しんだんだ』




マンボ姐が屋敷にイムジャを

訪ねた時から嫌な予感はしていた

「ヨンァ お願い」

己の欲で無い頼み事だと分かっているだけに

「否」と頸を横には振れない が

手裏房絡みが 少々気に入らぬ

「屋敷まで師淑さんに連れて来て貰うから

ねっ うんと言って」

両手を合わせ懇願するイムジャに

「狡(ずる)いですよ」

俺は弱い




【赫(ヒョク)仕事だ】

師淑から繋ぎが届いた

「俊(ジュン)

暫く帰れない

乗馬の鍛錬は休みだ

剣はいつも通りにやっていろ」

「はい 師匠」

鍛錬を始めた時から 

俊(ジュン)は赫(ヒョク)を

師匠と呼んだ

「その呼び方は 止めろ」

「弟子と認めて頂くには 程遠いですが 

ご教授頂いている間 私には師匠です」


翡翠(ピチュイ)の耳に

赫(ヒョク)に繋ぎが来たと 届いた

手裏房の仕事なら多少は知ってる

だけど 

赫(ヒョク)様へ繋いだのは師淑様だ

剣の腕を買われての呼び出し

「私が心配してどうするの」と

自分を諭すが  

押し寄せる不安を拭い去る事が出来ない


赫(ヒョク)は

俊(ジュン)に暫し出掛ける旨を

伝えた足で居室に戻り 

箪笥の奥に仕舞った

風呂敷(ポシャギ)を取り出した

(今度の仕事は 何故か胸騒ぎがする)

金青の衣に袖を通す

俺の為に拵えてくれたのなら

その姿を見せぬまま 

最後になりたく無かった


翡翠(ピチュイ)は執務室を出て

厩へ走り出した

黒尽くめの衣を探していた目に

飛び込んで来た金青色

(まさか・・

今生の別れでは無いですよね)

背の高い影は 黙礼すると踵を返し

厩に向かい足早に歩き出す

(ご無事で どうかご無事で

お戻りください)






仕事と言われ

出向いた先はチェ・ヨンの屋敷だった

「師淑 どういう事だ」

「ヨンがお前と手合わせしたいとさ」

「何を企んでいる?」

「止めるか?」

高麗近衛の大護軍

その昔は赤月隊の最年少部隊長

願ってもない機会だ

「良いだろう」

ヨンが赫(ヒョク)に

木剣(ぼっけん)を投げ渡す

「真剣での立ち合いでは無いのか」

「悪いな イムジャに止められている」

『ヨンァ 手合わせと言っても

骨折させちゃ駄目よ

俊(ジュン)の鍛錬に差し障るから』

『手合わせに 無傷等ありません』

『じゃ 打撲ぐらいで

そうね 全治一週間くらい?』

『いっしゅうかん・・とは』

『えっと 五・六日?』



イムジャが師淑に頼むから

屋敷の屋根の上に手裏房が

一人二人と 増えていく

「よいしょ」と掛け声をかけて

昇って来る太肉(ふとりじし)の女人

「マンボ姐も来たのか?」

シウルが手を差し出し 

引っ張り上げる

「お前達 商いはどうした」

「ヨン旦那の剣捌きが

間近で見られるんだ

見逃す手は無い」と言い

「マンボ姐こそ

酒房の仕込みはどうするんだよ」

ジホが茶化す

「煩いね 今夜は休みだ」



赫(ヒョク)の無事を祈る

翡翠(ピチュイ)の許へ

ウンスから文が届いた

【行首(ヘンス)様

お願いしたい事があります

両班の夫人を装い

都までお越し頂けませんか】

妓楼の前には馬車が待っていた

赫(ヒョク)の事が気になり

妓楼の仕事が手につかないでいた

翡翠(ピチュイ)は衣裳部屋へ急いだ

「水晶(スジョン)

医仙様からの呼び出しだ

今夜はお前が仕切っておくれ」

「分かりました」




馬車は都の大路を進み

一つ入った路地の角で止まる

御者台から下りた女人が

扉を開け声を掛けた

「行首(ヘンス)様

此処からは少し歩きになります」

その声に聞き覚えがある

医仙様付きの武閣氏ポンスンだった

「分かりました」

馬車から下り歩き出すと

路地の先は行き止まりだった

(此処は・・)

マンボ姐から聞いた事がある

大護軍様の隠れ庵

ポンスンが壁に向かい

小さな声で漢詩を読むと

ゴトゴトと壁が動き

人 一人が通れる隙間が開いた

「どうぞ お入りください」


隙間を潜ると 庭があり
 
小径に沿うように小川が流れ 

両側には 紫や白の

花菖蒲(はなしょうぶ)が咲いていた

小さな船着き場に小舟が結わえられており

「此処から舟に乗ります

着いた所で医仙様がお待ちです」




緩やかに流れに沿って進んだ先の

船着き場に ウンスが立っていた

「いらっしゃい」

満面の笑みに迎えられ

翡翠(ピチュイ)の頬も緩む

「お待たせ致しました」

衣装を替えたからではない

生まれた時から身に付いた

両班のお嬢様としての

立ち居振る舞いが躰から溢れていた

「此方へどうぞ」

ウンスが案内した離れは

手入れされた庭に面した部屋で

明け放された窓から

咲き誇る花菖蒲が眺められた


「失礼します」

冷えた五味茶が出され

「冷たいうちにどうぞ」

ウンスの勧めに

ウンスが口を付けたのを確認して

「頂戴します」と器を手に取る

そして

ウンスが話し出すのを待った

「行首(ヘンス)様」

「はい」

「私とヨンが夫婦(めおと)になるまで

色々あった事 ご存じですよね」

「はい 承知しております」

お辛い事ばかりが二人に降りかかり

縁の糸が切れそうになった事は

一度や二度ではなかった

「私達の経緯(いきさつ)を誰よりご存じの

行首(ヘンス)様なのに

張・赫(チャン・ヒョク)さんの不幸は

どうして

自分の所為(せい)って考えるの?」

「えっ?」

「張・赫(チャン・ヒョク)さんが

不幸なのは そう思われてる事よ」

「医仙様?!」

思いもしなかった言葉に

翡翠(ピチュイ)の眸が大きく開く

「あのとき 自分が

願わなければ赫(ヒョク)さんは

今の暮らしでは無かった筈と

何時までも

悔恨(かいこん)の念に駆られて

大切な今を無駄にしてる気がするの」

「・・医仙様」

心の奥に隠した本心を当てられ

動揺を隠す為 五味茶※を口にした

(酸っぱい・・)

五味茶は体調によって味が変わる

「行首(ヘンス)様

もう自分を許してあげても

良いんじゃない?」





「医仙様 宜しいでしょうか」

廊下からポンスンが声を掛けた

「どうしたの?」

「手裏房からの知らせで

張・赫(チャン・ヒョク)様がお怪我を」

「怪我?」

「はい 

詳しい事は分かりません」

(もう ヨンったら

あれほど頼んだのに・・

好敵手に 

手加減出来無かったのかしら)

振り向くと

翡翠(ピチュイ)の顔は色を失っていた

「行首(ヘンス)様 一緒に」

「はい」

「ミンスさん※馬をお願いします」
桃源庵の責任者

ポンスンが知らせを持って来た時に

ミンスは既に馬の用意をしていた

「医仙様のチュホンと

もう 一頭はこちらに」

(流石ミンスさんね)

「急ぎます」

チュホンに騎乗しながら

翡翠(ピチュイ)に声を掛けると

初見の馬だと言うのを

微塵も感じさせずヒラリと鞍に跨った






ヨンが木剣を手に取り

ブンッと一振りすると

赫(ヒョク)の顔から笑みが消えた

「参ります」

スッと木剣を下段に構え

勢いよく踏み込んでいく

(速い 剣筋を読み

避けるのがやっとだ) 

久し振りだ この感覚

赫(ヒョク)は木剣を握り直した

ガツッ 剣が合わさる

(重い なんて力だ

師淑が 惚れる筈だ)

ヨンの血が滾る

バッ!剣が離れる

胴を目掛け来る剣筋を躱し

何方も譲らぬ互角の戦いは

思わぬ形で終わりを告げた


ウォノンくんに付いて出掛けていた

ポゴムが 門を潜った途端

見知らぬ匂いに反応し 

弾丸の様に 

赫(ヒョク)の頸(くび)目掛け

飛び掛かって来た

「ウッ!」とっさに避け

躰を捻ると

犬歯が木剣を噛んでいた

「何故 豊山犬(プンサンゲ)が?」

熊も倒すと言われる犬が

急に襲い掛かって来た

「ポゴム 離せ!」

ヨンの声が届かぬ様子で唸り声を上げ 

その眼は赫(ヒョク)の頸から離れない

成犬の重みに木剣と共に地面に倒れ込んだ

舞い上る土埃の向こうに

「怪我を診せて!」

揺れる赤い色

息を切らし庭に走って来た

イムジャの声が聞えた途端

木剣を離し

ポゴムが門を目指し駆け出した 

その横を一人の女人が駆けて来る

「赫(ヒョク)様!」

お屋敷の門を潜り

庭を目指し 只走る

土埃の舞う庭に倒れ込んでいる人影

「赫(ヒョク)様!」

真っ青な顔で俺の名を呼ぶ女人(ひと)

「赫(ヒョク)様!」

その瞳から流れる涙が

土埃で汚れた赫(ヒョク)の顔に

ポトリポトリと落ちていく

「多恵(ダヘ)殿」

何年振りかにその名を呼んだ

「・・赫(ヒョク)様」


屋敷の屋根の上

「おい 

あれ翡翠(ピチュイ)だろ?」

「俺 翡翠(ピチュイ)が

取り乱してるの初めて見たぞ」

「俺もだ 

翡翠(ピチュイ)が泣いてる」

手裏房達が 小声で話してる


「良い頃合いだ」

師淑が言う

「上手くいくかね」

マンボ姐が言う

「いくだろうよ」

「そうだね」

チェ家屋敷の庭にも

白い花菖蒲の香りが漂う

菖蒲東風(しょうぶこち)が吹き

初夏の訪れを告げていた