まずはあらすじから。

昭和11年、芸術家の梅沢平吉という人物が、自身のアトリエで殺されているのが発見される。アトリエには、彼の手記が残されており、そこには「六人の処女の肉体を組み合わせて、理想の存在「アゾート」を創りたい」という、おぞましい創作願望が綴られていた。
そして梅沢の死後、「アゾート」の「材料」として予定されていた梅沢の身内である娘たちが、手記の記述通り殺されてしまう。

事件後約40年間、日本中に詳細が公開され、様々な仮説が飛び交っているのにも関わらず、この事件は迷宮入りとなっていた。そんな中、占い師である御手洗潔は、ある女性からこの事件の解決の依頼を受ける。
梅沢の完全密室殺人、肝心の梅沢の死後に起こった「アゾート殺人」、関係者全員に成立するアリバイ、様々な謎を含む不可能犯罪に、占い師兼探偵の御手洗が挑んでいく。


以下ネタバレを含む感想。

密室ものとして評価が高いと聞いていたが、トリックとして優れているのは死体の方だと思う。
バラバラ死体や首なし死体と言えば、その身元の不確実性によって、「アイデンティティ」というものに対して揺さぶりをかけるものであるが、この作品は単にどれが誰だか分からないというだけに留まっていない。5人分の死体が6人分に増え、それによって犯人が隠蔽される、つまりある一人の存在が、一方で仮構され、一方で消滅するという、より高度なアイデンティティの撹乱となっている。個人的には、単に技術的に優れているだけでなく、こういうちょっとした象徴的意味のあるトリックが好きなので、それにしっかりと応えてくれるものだった。

物語の世界観としては、占星術の怪奇性が存分に生かされている。事件の猟奇性に加えて、「アゾート」はいずこ!?というような冒険小説的なロマンも味わえるので、いい非日常感の中で読める。
ついでに言っておくと、ワトソン役石岡の、京都巡りや名古屋訪問などで、ちょっとした旅行気分も味わえる。

ただ逆に言えば、旅行気分ぐらいで読むしかないとも言える。この石岡の奔走は、ワトソン役らしく、事件解決という観点から見れば本当に無駄になってしまう。それになんとなく勘づきながらワトソン役の行動は読むものではあるのだが、この作品ではそれ以上の無駄足感がつきまとってしまっている。
この作品は冒頭、梅沢の手記の挿入から始まるが、「手記」を扱う以上、必ず本当に本人の手によるものなのかという問題が浮上する。それはあらゆる場面においてそうだし、ましてや疑ってなんぼの推理小説であればこの疑問を放置することはできない。かなり早い段階で差し当たっての結論を出しておかないと、この点で読者を騙すのは難しいように思う。しかしこの手記が本当に梅沢のものなのかという問題は、解決の段階まで全く言及されず、意図して避けているのが隠しきれてない。この可能性が念頭にある限り、梅沢生存説を証明するための石岡の行動は、ワトソン役の無駄足としてもあまり読めたものではない。

あと、探偵の「占い師」という属性がもうちょっと上手く生かされていたらなあと思う。探偵と占い師は、相反する様に見えて、やってる事はものすごく似てるという、面白い関係にあると思うのだが、今回はこの属性が、単に梅沢の手記は専門的に見ておかしいと指摘するだけにしか役立っていないので少し残念。まあ初回だと仕方ないのかなとも思う。

ちょっと否定的なことも書いたが、それが気にならないくらい面白かった。是非次作も読みたい。