※学部生の時に書いたレポートです。

 

 

イェイツ ‘Easter 1916’と‘The Fisherman’における語り手の迷い

 

 

1. はじめに
 本論では W・B・イェイツの ‘Easter 1916’「一九一六年復活祭」と‘The Fisherman’「釣師」について論じる。特に、この二つの詩における語りに着目して考察していきたい。それぞれの詩における語りがどのような特徴を持ち、どのような役割を果たしているかを明らかにするのが本論の狙いである。

 

2. ‘Easter 1916’における語り
 まずは‘Easter 1916’「一九一六年復活祭」における語りがどのような特徴を持っているかを分析する。以下は第一連目の一部である。

 

I have passed with a nod of the head

Or polite meaningless words,
Or have lingered awhile and said

Polite meaningless words,

 

私はうなずいて、あるいは丁寧な

ありきたりの言葉をかけて、通り過ぎた。

またはちょっと立ち止まって、

丁寧なありきたりの言葉を交した。(1)

 

 ここではまず or が2回登場し、頷きながらだったのか、何か言葉を言いながらだったのか、通りすぎたのか、立ち止まっていたのか、何をしながらだったのかよく分からない形で提示されるが、"Polite meaningless words"(丁寧なありきたりの言葉)だけはそのままの形で繰り返されており、強い印象を与える。そのため、"Polite meaningless words"という断片だけは浮かび上がってくるのだが、それがどういう状況で発せられたものなのかはよく分からず、部分的な一要素だけが浮き、逆に全体像はぼやけた状態である。同じ状況の説明に四行も費やされているのにも関わらず、読み手は語り手が語る過去の様子を理解できずに混乱する。しかし、混乱しているのは読み手だけではない。整理できていない状態で情報を提示する語り手の方もまた混乱していると言える。

 このようにある要素だけをそのまま繰り返し、他の部分だけ変えて語り直すという語り は、‘Easter 1916’全体に見受けられる。例えば第三連がそれにあたる。

 

The horse that comes from the road, 

The rider, the birds that range

From cloud to tumbling cloud,

Minute by minute they change;

A shadow of cloud on the stream

Changes minute by minute;
A horse-hoof slides on the brim,

And a horse plashes within it;

The long-legged moor-hens dive,

And hens to moor-cocks call; 

Minute by minute they live:
The stone’s in the midst of all.

 

街道から降りて来る馬、

乗り手、積み重なる雲から雲へと

飛び移る鳥の群、

このものらは一刻ごとに変る。

流れに映る雲のすがたも

一刻ごとに変る。

馬の蹄が流れの縁ですべる。

流れの中で馬が水しぶきをあげる。

長い脚の鷭の雌が水にもぐる。

雌は雄の鷭を呼ぶ。

このものらは一刻ごとに生きる。

あの石がすべての真ん中にある。(2)

 

 “Minute by minute they change”(このものらは一刻ごとに変る)、 “Changes minute by minute”(一刻ごとに変る)、” Minute by minute they live”(このものらは一刻ごとに生きる)はそれぞれ似たような表現であるが、その移り変わりを見ていくと、“Minute by minute they change”から“Changes minute by minute”かけては主語が、“Changes minute by minute”から” Minute by minute they live” にかけては主語と動詞が変化しており、“minute by minute”という表現だけがそのまま繰り返される。“minute by minute”という要素以外は、まだ情報が整理できておらず、後になって付け足したり、修正が行われたりしていることから、ここでもまた語り手の混乱が表現されていると言えよう。

 また”change”いうことばは、第一連終盤の”All changed, changed utterly”(すべてが変った。完全に変った)、第二連終盤 の”He, too, has been changed in his turn,/Transformed utterly”(この男にも/変るときが来て、完全な変身を遂げた)、第四連の”Are changed, changed utterly”(変ってしまった。完全に変った)という具合に、詩全体で繰り返されている。そして何がどう変わったかということについては、それぞれの連において違う意味づけがなされている。これはこの詩で三回繰り返される”A terrible beauty is born”(恐ろしい美が生まれた)という表現も当てはまる。変化したことや、 恐ろしい美が生まれたことは確かなのだが、何がどのように変わったのか、恐ろしい美がどのようなものであるかということは、語り手の中で整理がついておらず、むしろ語りながら何が起こったのか考えていくのが、この語りの特徴であると言えよう。

 このように‘Easter 1916’の語りを混乱したものとして考えると、最初の行でなんの指定もなく"them"が出てくるのも納得がいく。"them"が誰を指しているのか特定することは難しいが、仮に第二連から登場する、"That woman"や"This man"、"This other his helper and friend"、"This other man"だとすれば、"them"がどういった人々であったかは後になって分かってくることになる。高松雄一によれば、"That woman"は Constance Markiwicz、"This man"は Padraic Pearse、"This other his helper and friend"は Thomas MacDonagh、"This other man"は John MacBride を指し、彼らはイースター蜂起に参加した人々だった(3)。 後の三人は第三連になって初めて名前が登場し、ここでやっと具体的な存在となる。"Polite meaningless words"や“minute by minute”、”change”、” A terrible beauty is born.”、"them"といった、思いつく要素やことばだけをとりあえず先に提示し、後で語りながら解釈をしていくのが、この作品における語りの特徴だと言えよう。

 

3. ‘The Fisherman’における語り
 ‘The Fisherman’「釣師」では‘Easter 1916’と同じく一行目になんの指定もない代名詞が登場する。以下は‘The Fisherman’の最初の8行である。

 

Although I can see him still,

The freckled man who goes

To a grey place on a hill
In grey Connemara clothes

At dawn to cast his flies,

It's long since I began

To call up to the eyes
This wise and simple man.

 

私は今も見ることができる、

顔にそばかすを散らした男が、

灰いろのコネマラ織りの服を着て、

夜明け方、丘の上の灰いろの釣場へ出向き、

毛鉤を投げる姿を今も見るのだが、

この賢い質朴な男を

思い浮かべるようになってから

ずいぶん久しい。(4)

 

 この連では最初に何の指定もない"him"が突然登場し、2行目から4行目にかけてそれがどういう人物であるかという情報が付け加えられる。この情報の付加に3行も費やされているために、主節にたどり着くのに時間がかかり、意味が取りづらい。また語り手は、"him"を"The freckled man〜"、"This wise and simple man"と違う形で二度も言い直している。 語り手は"him"の人物像を固めた上で語っているというよりは、思いつくままにことばを並べていると考えられ、‘Easter 1916’と似たような性質を持っていると言えよう。

 そしてこの釣り人のイメージは最後の連でもう一度繰り返されるが、最初とは少し違った形で提示される。

 

Maybe a twelvemonth since

Suddenly I began,
In scorn of this audience,

Imagining a man,

And his sun-freckled face,
And grey Connemara cloth

Climbing up to a place
Where stone is dark under froth,

And the down-turn of his wrist

When the flies drop in the stream;

A man who does not exist,

A man who is but a dream;

And cried, ’Before I am old
I shall have written him one

Poem maybe as cold

And passionate as the dawn.’

 

それからたぶん十二カ月もたったころ、

とつぜん、私は

この聴衆を軽蔑して、

一人の男を思い浮かべた。

そばかすだらけの日に灼けた顔をして、

灰いろのコネマラ織りの服を着た男が、

流れの泡に濡れて石が黒ずむ

あたりまで登って行くのを、

男の手首が返り、毛鉤が流れに放りこまれるのを。

存在しない男を、

一つの夢でしかない男を。

そうして私は叫んだ、「老いぼれるまえに、

この男のために一篇の詩を書こう、

おそらくは夜明けのように冷たくて

情熱にあふれる詩を書こう」と。(5)

 

 “Maybe a twelvemonth since / Suddenly I began,/ In scorn of this audience,/ Imagining a man,”(それからたぶん十二カ月もたったころ、/とつぜん、私は/この聴衆を軽蔑して、/一人の男を思い浮かべた。)という箇所は、最初の連の“It's long since I began/ To call up to the eyes”(思い浮かべるようになってから/ずいぶん久しい。)に対応する箇所である。ここでは“long”が“a twelvemonth”というより具体的な時の指定へと変化し、更に“In scorn of this audience,”という状況の描写が付加されている。

 “And his sun-freckled face,/ And grey Connemara cloth/ Climbing up to a place/ Where stone is dark under froth,/ And the down-turn of his wrist/ When the flies drop in the stream;”(そばかすだらけの日に灼けた顔をして、/灰いろのコネマラ織りの服を着た男が、/流れの泡に濡れて石が黒ずむ/あたりまで登って行くのを、/男の手首が返り、毛鉤が流れに放りこまれるのを。)は、最初の連の“The freckled man who goes/ To a grey place on a hill/ In grey Connemara clothes / At dawn to cast his flies,”(顔にそばかすを散らした男が、/灰いろのコネマラ織りの服を着て、/夜明け方、丘の上の灰いろの釣場へ出向き、/毛鉤を投げる姿を今も見るのだが、)に対応している。ただの“goes” が”Climbing”というより限定された動作になり、“At dawn”という漠然とした時の指定が、 “Where stone is dark under froth,”という細かな川の描写によって表現され、更に“to cast his flies”は“the down-turn of his wrist/ When the flies drop in the stream;”というより詳細な描写へと変化している。

 このように、この詩の冒頭と最後を比べてみると、より具体的かつ詳細な表現へと変化していることが読み取れる。あるいは、より現実を見据えた描写となっているという言い方もできる。終盤では水を差すようにして“In scorn of this audience”という詩句が挿入され、釣り人が“A man who does not exist,/ A man who is but a dream;”(存在しない男/一つの夢でしかない男)であることが 述べられる。これは“I can see him still”と語り始め、単に理想的存在としての釣り人を思い浮かべるだけの冒頭部分とは対照的である。このように‘The Fisherman’では始めと終わりで理想や現実に対する解釈が異なっており、‘Easter1916’と同じように語り手の迷いが表れている。

 

4. おわりに
 これまで見てきたように‘Easter 1916’と‘The Fisherman’の語りには、混乱や迷いといったものが見受けられる。ではこのような語りが、それぞれの作品においてどのような役割を持っているのだろうか。‘Easter 1916’はその題名からわかるように、1916 年のイースター蜂起を背景としている。先ほど、この詩にはイースター蜂起に参加した人々の名前が挙がっていることを指 摘したが、彼らは後述する通り、イェイツのアイルランド演劇に理解を示さない中産階級 のアイルランド人であった(6)。そういったそもそもの軽蔑の念に加えて、彼らの無謀さや蜂起の意味それ自体が、手放しに肯定できないものだったのだろう。イェイツがこの詩において、「彼ら[蜂起に参加した人々]を不滅の英雄と讃えたのか、あるいは早まって犬死した愚者と考えたのか、疑問のまま残っている」(7)という。それは詩を書く段階でイェイツの心情が定まっていなかったことを意味するのではないだろうか。むしろ定まっていないからこそ、詩を書くことで自らの心情を整理しようとしたのであり、その過程がこの詩に描かれていると考えられる。

 ‘The Fisherman’の方はイェイツの演劇活動と関係がある。イェイツはアイルランド 文芸復興運動の中心人物であったが、彼を始めとするアングロ・アイリッシュの作家たちの演劇に対し、ケルト系の人々からは批判の声が上がっていた(8)。1907 年に行われた J.M.シングの戯曲 The Playboy of Western World の上演では暴動が起こり、イェイツはアイルランドの人々に対し幻滅と怒りを感じたようである(9)。この詩の 13 行目からは粗野で騒々しい人々が“the reality”として描かれ、アビー座で暴動を起こしたアイルランドの人々を彷彿とさせる。それは冒頭で描く理想的な存在としての釣り人とは程遠い。アイルランド人を描こうとすると、理想と現実が交錯してしまい、どう描けばいいのか分からなくなってしまう、その迷いがこの詩の語りに反映されていると言えよう。

 このように、‘Easter 1916’と‘The Fisherman’における語りの混乱や迷いには、イースター蜂起や、演劇活動におけるアイルランドの人々との確執といった、受け止め難い現実と対峙するイェイツの苦悩が表れているのである。

 

(1)W・B・イェイツ著 高松雄一編『対訳 イェイツ詩集』岩波書店 2009年 pp. 138-139 強調は引用者による。以下同様。

(2)同書 pp. 142-143

(3)同書 pp. 140-141

(4)同書 pp. 122-123

(5)同書 pp. 124-127

(6)辻昭三『イェイツの詩界逍遥』英宝社 2008 年 p. 61

(7)同書 p.93

(8)佐伯瑠璃子「W.B.イェイツのナショナリズムとナショナルアイデンティティ」『神戸海星女 子学院大学研究紀要』55 巻 神戸海星女子学院大学 2017 年p. 16 

(9)W.B.イェイツ『対訳 イェイツ詩集』pp. 122-123

 

参考文献
W・B・イェイツ著 高松雄一編『対訳 イェイツ詩集』岩波書店 2009年 

辻昭三『イェイツの詩界逍遥』英宝社 2008 年
佐伯瑠璃子「W .B.イェイツのナショナリズムとナショナルアイデンティティ」『神戸海星女 子学院大学研究紀要』55 巻 神戸海星女子学院大学 2017 年 pp. 11-20

 

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調べるのにかかった時間:・・・★★

書くのにかかった時間:・・・・★

自己評価:・・★★★

※五段階評価

 

今振り返って見て:

 過去の描写が変化していく中で、強調されるのが“change”であるのは非常に象徴的だと思う。全体像がぼやけている中で、強く固定化され、読み手にとっても語り手にとっても「足場」になることを期待されることばですら“change”であるというのは、詩とその語りの流動性をよく表している。まさに変化それ自体を捉えた詩だと言えるだろう。

 “Poem maybe as cold/And passionate as the dawn.”は非常に巧みな表現であるように思う。イェイツからアイルランドの人々に対する思いは“passionate”なのに、当のアイルランドの人々にそれは理解されない。彼の内面は情熱で満ちているのに、それは受け取ってほしい人に相手にされないことで、客観的に見れば死んだもの、“cold”なものになってしまう。この「糠に釘」感が“passionate”“cold”という二つの形容詞によって、よく表現されているように思う。

 

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