※この記事ではドストエフスキー著 江川卓訳『罪と罰』(岩波書店 2013年)を扱っています。

 

 

 

 今日ドストエフスキーの『罪と罰』についてこんな話を耳にした。主人公ラスコーリニコフが、質屋の老婆を殺害する場面で、老婆自身は斧の「峰」で殺されているのに対し、その義理の妹であるリザヴェータは斧の「刃」で殺されているというのである。確認のため本文の該当箇所を引用してみる。まず質屋の老婆アリョーナ・イワーノブナが殺される場面である。

 

 もう一瞬の猶予もならなかった。彼は斧をすっかり取りだし、なかば無意識のうちに両手でそれを振りかぶると、ほとんど力をこめず、ほとんど機械的に、頭をめがけて斧のをふりおろした。そのときは、まるで力がなくなってしまったようだった。だが、一度斧をふりおろしたとたん、彼の身内には新しい力が湧いてきた。(p. 160 太字は引用者による。以下同様。)

 

 次に、リザヴェータが殺される場面である。

 

 彼は斧をかざして彼女にとびかかって行った。彼女の唇は、ちょうどごく幼い子が何かにおびえ、その恐ろしいものをじっと見つめながら、いまにも泣きだしそうになるときのように、いかにも哀れっぽくゆがんだ。そのうえ、この哀れなリザヴェータは、斧を頭上にふりあげられているというのに、手をあげて自分の顔をかばうという、このさい、ごく自然に必要な身振りさえしようとしなかった。それほどに単純で、いじめつけられ、おどしつけられていたのだ。彼女は、空いているほうの左手をほんのわずかもちあげたが顔まではとてもとどかなかった。そして、彼を押しのけようとでもするつもりか、その手をのろのろと前に差しのべた。斧のはまともに頭蓋骨にあたり、一撃で額の上部をこめかみのあたりまでぶち割った。(pp. 165-166)

 

 「峰」か「刃」かという殺害方法の違いに加え、意地悪な老婆として描かれてきたアリョーナと、その抑圧を受け続け、殺される時も子供のようになんの抵抗もできずにいるリザヴェータの対照も相まって、後者の方がより容赦が無いように見えるが、ここには、二つの殺人の本質的な違いが反映されていると考えられる。

 

 ラスコーリニコフは、世の犯罪者がみすみすなんらかの手がかりを残してしまい、結果犯罪が露見してしまう理由について、「犯罪をかくすことが物理的に不可能であるというより、むしろ犯罪者自身のなかにある」、すなわち、犯行の瞬間の免れ得ない「意志と判断力の一種の喪失状態」にあると考える。一方、自らが計画している殺人は「犯罪ではない」ため、このような変化は起こり得ないだろうと考える(pp. 149-150)。

 ではなぜ「犯罪ではない」のか。ラスコーリニコフは、始めてアリョーナのもとに質草を持って行った帰りにある安料理屋に立ち寄り、そこにいた学生と将校の会話を耳にする。二人はちょうどアリョーナの話をしていたところであり、その意地悪で価値のない老婆の金で、経済的困窮のために身を滅ぼしている若者を救ったらどうかという議論がなされていた。それを聞いたラスコーリニコフは以下のように考える。

 

 ラスコーリニコフは異常な興奮にかられていた。もちろん、こんな話は、テーマや形こそちがえ、彼がもうなんべんも耳にした、ごく平凡な青年たちの話であり、考えであった。しかし、なぜ、選りによって、いま彼自身の頭のなかにもそっくり同じ考えが芽生えたばかりのときに、彼はこういう話、こういう考えを聞く羽目になったのだろうか?そして、いま、彼が老婆のもとからその考えの芽生えを抱いて出てきたばかりのときに、なぜ彼は、その老婆の話にぶつかったのだろうか?……彼にはこの暗合が、いつもふしぎに思われた。そして、飲食店でのこのつまらない会話が、事件その後の発展のうえで、青年に異常な影響をおよぼすことになったのである。あたかも、そこに、本当に何かの予言が、天啓が含まれていたかのように……。(p. 141)

 

 ここでは、のちに展開されるラスコーリニコフの凡人/非凡人という思想にも表れている選民意識が、単に個人的なレベルに止まらず、「ごく平凡な青年たち」、すなわち当時の青年一般が抱く発想の延長線上に位置付けられている。さらに注目したいのは、彼の犯罪を後押ししているのが、単なる思想内容自体の正当性だけではなく、「彼自身の頭のなかにもそっくり同じ考えが芽生えたばかりのときに、彼はこういう話、こういう考えを聞く」という「偶然の暗合」(p. 135)だということである。リザヴェータが外出しアリョーナが一人きりになる時間を特定できたことや、凶器の斧を怪しまれずに調達できたことも、全て「偶然」であったが、それらは繰り返されるうちに「必然」の様相を帯び、ラスコーリニコフはこの自らの与り知らぬ運命のようなものに突き動かされて犯行に及ぶ。彼が斧を手に入れる場面で、「『分別じゃなくって、悪魔のしわざだ!』彼は、奇妙な薄笑いを浮かべて考えた。この偶然がひどく彼を力づけた。」(p. 152)と記述されているが、ラスコーリニコフを突き動かす「必然」は「悪魔」として形象化されている。

 しかし、この「偶然」は「偶然」によって裏切られる。あるいは、ラスコーリニコフは繰り返される「偶然」の真の意味を理解していなかったと言ってもいいかもしれない。アリョーナ殺害は、冒頭から逐一言及される「あれ」が実行されたものであり、以前から計画され、その正当性も幾度となく吟味されていた。終始葛藤や戸惑いはあったにしろ、アリョーナ殺害はあくまでラスコーリニコフの意志の範疇にある。彼の与り知らぬ運命の帰結は、むしろリザヴェータ殺害であったと言うべきではないだろうか。アリョーナ殺害後、ラスコーリニコフが金品を盗み出そうと家を捜索している間にリザヴェータは帰ってくるが、その時の様子は以下のように描写されている。

 

 突然、老婆の倒れている部屋で、人の歩く足音が聞こえた。彼は手をとめて、死人のように息をひそめた。だがあたりはひっそりとしている。空耳だったらしい。と、突然、かすかな叫び声がはっきりと聞こえた。というより、だれかが小声に短くうめき声をもらし、それなり黙りこんだようだった。それからまた、死のような静寂が一、二分もつづいた。彼はトランクの横に膝立ちになり、息を殺して待っていたが、突然、とび起きて斧をつかむと、寝室から走りでた。(p. 165)

 

 この箇所で三度繰り返される「突然」ということばは、ラスコーリニコフの想定外の出来事であることを意味し、リザヴェータの不意の帰宅は、彼の意志の外側にある「偶然」と同じ次元の出来事として位置付けられる。本来傷つけるつもりはなかったリザヴェータは、彼の予期に反して「偶然」に帰ってきてしまい、「偶然」殺されてしまうのである。この凄惨な殺人は、結果の重大さとは裏腹に、ラスコーリニコフにとってもリザヴェータにとっても「偶然」によって支配されたものであった。

 

 以上のような偶然性を考慮すると、アリョーナ殺害とリザヴェータ殺害の本質的な違いが明らかになってくる。アリョーナ殺害の場合、まだしも経済的な困窮を理由とした情状酌量の余地を一応は認めることができるし、少なくとも、ラスコーリニコフ個人のレベルのおいては、自らの思想によって「犯罪ではない」と自己正当化することが可能である。しかしリザヴェータ殺害は同情の余地も自己正当化の余地もない。意地悪なアリョーナとは違い、リザヴェータはなんら殺される謂れのない人物であり、この因果の埒外にある「偶然」は、より悪質、「悪魔」的である。そしてラスコーリニコフはこの「悪魔」的所業を、リザヴェータを「刃」で殺すことによって完成させてしまう。ラスコーリニコフ、あるいは当時の青年一般のなかで「敵」「悪」として位置付けられたアリョーナこそ「刃」を向けられる対象であるはずが、皮肉なことに最も「刃」を向けてはいけないリザヴェータがその対象になってしまい、この不条理なあべこべは、「悪魔」による純粋な悪の完成とみなすことができるのである。

 

 

 

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