※2019/01/25にnoteへ投稿したものを再掲

 

 

 唯物論者は、宗教のドグマが人間を束縛すると言う。しかし、唯物論がドグマを否定したからといって、それで現に人間が解放されるなどというわけはない。むしろ逆なのだ。私が霊魂の不滅を信じているとしても、いつもいつもそのことばかり考えている必要はさらさらない。だがもしわたしが霊魂不滅を否定したとしたらどうなるか。私はそのことを片時も考えてはならないことになる。前者の場合には道は開かれていて、私は自由に好きなだけ進むことができるけれども、後者の場合には道は初めから閉ざされている。いや、それどころではない。もっと大事なことがある。そして、狂気との類似はさらに驚くべき意味を持つ。そもそも、われわれが狂人の理屈の徹底した論理性に反対した理由は、狂人の論理が正しいか正しくないかは別にして、当人の人間性を次第に破壊して行くという事実にあったはずである。そこで、われわれが唯物論者の結論に反対するのも、やはりこの結論が、正しいか正しくないかは別として、当人の人間性を次第に破壊して行くという事実のためにほかならない。単にやさしさといった意味で人間性と言うのではない。希望と、勇気と、詩と、自発性と、あらゆる人間的なるものの意味で言うのである。(G・K・チェスタトン著 安西徹雄訳『正統とは何か』2009年 春秋社 pp. 33-34)

 

 自意識とは、私が私に向かって私を語ることを必要とする危機の状態であり、語る私と聞き手の私との時間的距離が近ければ近いほど病的である。したがって、自らが何者であるかという問いかけに対して、即座に答えるための大きな物語であるなら、それもまた病的にならざるを得ない。それは、常に個人に対して大きな物語への帰属意識を要請するものであり、束縛と狂気をもたらす。真の大きな物語は、意識のレベルにおいては忘れられているような寛容さを持つものであり、自由とはそのような状態においてはじめて見出されるものなのである。

 

 チェスタトンは唯物論批判してるけど、実は現代の科学はそこら辺の新興宗教よりもずっとこういう寛容さがあるんじゃないかとも思うし、ここで科学が根本ではキリスト教的だということを思い出してもいいかもしれない。

 

 

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