11月4日
キャプテン・ナオヤこと、山崎直也さんと知り合ったのは、1974年(昭和49年)。
当時、愛読していた「ライトミュージック」という音楽雑誌、昭和49年6月号のバンドメンバー募集欄に直也さんの投書が載った。
※日本語のオリジナルによる、カントリーロックグループ(ラビン・スプーンフル、ポコ、イーグルス風)を作りたし。
ドラムス、リードギター、ベースギター、マネージャーを求む。なるべく近くで18才以上の個性的な方、すぐに連絡を。
個性的ではなかったが、年齢もギリギリでクリアしてるし、なにしろ近所だったのですぐに連絡した。
住所から電話帳を見て調べた番号が、そのページにメモしてある。
連絡して会ってはみたものの、すぐにバンド結成に至ったわけではなく、たまに会って話をする程度で、一緒に行動することが増えたのは1年も過ぎた頃だった。
歩いて10分くらいの自宅には、よく遊びにいった。
直也さんが興味を持っていた音楽を、そ~っと見てた感じかな。
もちろん、いろいろなモノを聴かせてもらった。
ビーチ・ボーイズの「15 BIG ONES」 をよく聴いてた記憶がある。
(詞・山崎/曲・長谷部)のオリジナル曲を作り始めたのもその頃で、今でもやってる歌が数曲あるくらいだから、充実していたのだろうね。
The Gulf Coast Boundsの「パラダイス・メキシコ」「ラッキー・ラガー・ダンス・タイム」等。
共作第1号は、しばらくどこでもやってなかったけれど、近いうちにやるつもり。ちょいと手直ししてるトコ。
さて、バンドをやるようになってからは、どこから連れてくるのか、メンバーが入れ替わり立ち代わり、バンド名もフライングハイ、フジヤマトップス、ホーボーズ・ライン、とめまぐるしく変わっていった。
1975年~1977年頃だね。
直也さんはバンド名を考えるのが好きだったのですな。
アマチュアコンサートとかに出てたのが、ライブ活動といえるくらいだったけど。
その、フライングハイ時代の最大の思い出が、沖縄の宮古島演奏旅行だ。
これまた、どこかで知り合ったであろう宮古島出身の「下地勝市」さんというフォークシンガーが地元、宮古島の平良市民会館でコンサートをやるので、バックバンドで来ないか、という夢のようなお話。
1976年12月28日、我々は有明埠頭から船(!)で沖縄の那覇港に向けて出航。
31日に那覇からプロペラヒコーキ(YS-11)で宮古島に向かい、約10日間滞在したのである。
アメリカ建国200年、イーグルスが「ホテル・カリフォルニア」を発表した月。このエポックメイキングなタイミングでの沖縄遠征は・・・ただの偶然だろうな。
このツアーは、怠惰なワタシとしては珍しく詳細に記録してある。
フエルアルバムに写真、コメント、コンサート曲目、チラシ、三色の色違い入場券、さらには航空チケット、なんてのが収めてあって、良い刺激を受けたのであろう事は間違いない。
このあと、宮古島ツアーの余韻が冷めるように、メンバーが代わり、バンド名が変わり、直也さんのアメリカ滞在、帰国を経て、いよいよGulf Coast bound(初めはsなし)が始まる事になる。
もっとも、第1期の顔ぶれは後のGCBとまるで違い、オーギー(Ds)、福ちゃん(B)が登場するのはもう少し後の事だ。
そして2008年、考えもしなかったGCBの再始動、好漢ポニーボーイ(G)の参加、と何かが転がり始めたのを感じた年の11月4日、バンドの創始者、命名者、山崎直也さんは亡くなった。
やり残した事がたくさんあるよ、と言っておきます。
1977年1月10日 宮古島の空港にて
(L:長谷部、R:山崎)
2008年11月4日15:32 西の空

