被災地に咲いた花 妖精 臼澤みさきちゃん 枯れないでね久しぶりに歌を聴いて泣いた。臼澤みさきちゃん、くだらない芸能界に揉まれて悲しい人生を送らないでね。http://www.teichiku.co.jp/teichiku/artist/usuzawa-misaki/profile/
てんかん患者らの事故多発で運転免許虚偽申告に罰則導入へ 朝日新聞デジタル版より25日、てんかんなどで運転に支障がある病状にありながら故意に申告しなかった運転免許取得者に対し、罰則を設けるべきだとする提言を警察庁の有識者会議がまとめた。こうした患者について、医師が警察に通報する制度の整備も求めた。警察庁は来年の通常国会に道路交通法改正案を提出する方針。
僕が20代の頃の安全安心な真夜中の街昨夜の「孤独のグルメ」の舞台は西武新宿線の沼袋駅近くでした。20代の純情な時期に僕は西武新宿線の中井駅近くに住んでいました(正確に言うと上落合ですが)。ある日の午前1時過ぎに当時、好きだったおネエさんから「今からアンタの家に行って良いか?」って電話がありました。もう終電後ですから「ヽ(*´∀`)ノうわ!」って期待に胸震わせて待っていると、タクシーで高田馬場からやってきた彼女は酔っ払っていて、「どうした?」って聞くと「フラレタ」って言うんですよ。彼女、同じ職場の男性が好きで、この日、馬場の飲み屋で2人で飲んでいるときに告白してフラレタらしい僕の家に到着するなりわけのわからないことをブツブツつぶやいた挙句、「あたし帰る」って言うんです。えええ!Σ(゚д゚lll)そりゃないだろ!って思ったんですが、今も昔も馬鹿なあたしは、何もせず((*´ω`*))に上落合の交差点まで一緒に歩いて行ってタクシーをつかまえて彼女を乗せたんですが「一緒に来て」って言うんですね。酩酊している彼女をタクシーにひとり乗せるのもなんなので、彼女に言われるがままに彼女の自宅がある野方まで送ったんです。んで、野方に到着してカッコつけてタクシー代を払ってあげたら、帰りのタクシー代がなかったんですね。「じゃ、( ´・ω・`)ノ~バイバイ」って彼女はさっさと家の中に入っちゃうしさ…。取り残された僕は仕方がないから真夜中の街を歩いて(野方→沼袋→新井薬師前→中井)と歩いて帰ったんですよ。距離はそんなにないから大したことはないけど、沼袋駅前でおまわりさんに呼び止められて職務質問されたし、もう疲れました。翌日の仕事は(´-ω-`)眠くてキツかったぁ~。でも、あの真夜中の街を歩いて帰ったのが凄く懐かしいんですね。オネエちゃんのことなんてどうでもいいんです。真夜中の街を歩く幸せってのかなぁ~世の中はまだ安全で安心を満喫できた時代でした。
会津に謂れのある人物「怪僧 天海」江戸開府以降、宗教だけでなく朝廷の扱いにも口を出した僧がいます。天海です。彼は長寿であり、134歳まで生きたとか114歳、102歳、90歳までといろいろな説があるのですが、108歳というのが妥当な享年のようです。人生50年の時代に凄い長寿ですよね。家康、秀忠、家光の3代にわたって仕えたってんですから化物みたいなものです。第一、家康より年上なんですよ、この坊主はw天海は、比叡山で天台を学んで、天正16年(1588)川越喜多院の第27世住職になりました。慶長14年から家康に用いられ、権僧正(大僧正・僧正の次の位)に昇進し、比叡山の南光坊にも住したので”南光坊天海”と呼ばれるようになりました。川越の喜多院には家康から年領48000坪と750石が与えられ、関東の天台宗総本寺とされました。天海は天台宗の支配権を握りたいと考えていて、幕府の宗教政策に口を出すようになります。天台宗の本山は比叡山なのですが、強引に「関東天台宗法度」を作り、川越喜多員は延暦寺を凌ぐ特権を持つようにまでなります。また日光山を支配していた座禅院の住職が他の僧と争って下山してしまったので、家康は天海を日光山座禅院の院主に任命しました。日光山には「衆徒三十六坊(寺)」と「部屋坊二十五坊」があり、天海は、座禅院を含めた十カ寺だけを残して、三十六坊と部屋坊二十五坊の寺領すべてを没収してしまいました。家康が死んだ際には「京都の南禅寺の金地院や日光に小さなお堂を造成して、私の霊をそこに祀ってくれ」と遺言したのですが、家康の神号をめぐって、金地院崇伝と争うことになりました。天海は「権現にすべき」、崇伝は「明神にすべき」と、共に譲らぬのですが、天海は強引に権現に決めてしまいます。二代目将軍となる秀忠が「なぜ明神ではダメなのか?」と聞くと、「秀吉に明神の称号が贈られており不吉なのです」と答えました。天海は、それ以降も数え切れぬ程の迷信で江戸幕府の陰の部分を牛耳っていくのですね。江戸の都市計画にも関わり、陰陽道や風水に基づいた江戸鎮護を構想した って話も有名です。彼は足利代将軍の11代義澄の子であるとか12代義晴の子であるとかと言われるのですが、素性がはっきりしません。会津の蘆名氏の一族だとも言われ、十一歳の際に会津で出家して随風と名乗っていたようです。会津に謂れのある怪僧なのですね。でも、なんでいきなり天海について書くのか?今日、横になりながら「日本怪僧奇僧事典」粗田浩一さん著(東京堂出版 1996年刊)をながめていたからです。
「愚公山を移す」愚行と智叟(列子より)昔、中国に”太形(たいけい)””王屋(おうおく)”という2つの山がありました。周囲が7百里、高さが8万尺もある大きな山でした。90歳になる愚公(ぐこう・愚か者という意味)という老人は何処へ行くにも、この2つの山に邪魔されて難儀していました。愚公は「みんなで山を平らにして道を通そう。そうすれば、目的地まで最短の距離で行ける」と言いました。皆賛成して、愚公は自分の息子と孫を引き連れて山を切り崩し始めました。それを見てい老人智叟(ちそう・利口という意味)が「その年じゃ死ぬまで頑張っても山を崩すことはできないし、切り崩した土や石は始末に困る。なんて馬鹿なんだろう」と笑って、手伝おうともしなかった。それを聞いた愚公は怒って言いました。「馬鹿はお前だ!寿命がなんだ!俺が死んでも息子がいるし、息子が死んだら孫が山を切り崩す。子々孫々にわたって掘り続ければいいだけだ。山はこれ以上高くならないから、その気になって続ければいつかは山を切り崩して平らにできるじゃないか!」愚公の意志の強さに心を打たれた天帝は、力持ちを使って夜中に2つの山を移動させたという結末なんですが、こんな非現実的な結末はどうでもいいんです。要は、やってみなければできるかどうかはわからない。地道にやり抜いてこそ愚公のように不可能を可能にできるのだ・・・というのが重要なんですね。「愚行山を移す」”愚かな者でも怠らず努力すれば、大事をなしとげることができるというたとえ”です。努力せずに動かない僕自身への戒めになるかしらん?