境島村在住の紙芝居作家、ゆめ工房さんが渾身の力を振り絞って描き上げた戦争をテーマにした紙芝居「父さん早く帰ってきて」が、いま当ブログで大きな話題となっています。

この作品は今から68年前、日本が戦争をしていたころの話です。
冒頭の一部を紹介しますと、
「戦争が激しくなると、日本の各地にアメリカ軍の飛行機が飛んできて、毎日爆撃するようになりました。当時の子ども達は、その時代どう生きていたのか。6年生だった勝君の戦争証言で・・・」

紙芝居「父さん早く帰ってきて」は、昨年「峠の老い桜」で衝撃の全国デビューを果たした、ゆめ工房さんが世に問う戦争をテーマにした4部作、「子に伝える戦争の話」シリーズの3番目の作品です。(「峠の老い桜」はその4番目の作品)
またまた出版社により出版化され全国販売となるか、はたまた映画化されるか、今後の展開が楽しみです。

★紙芝居「父さん早く帰ってきて」
$ほぼにちパート2

上演の途中、一人焼け跡で空襲で母を亡くし、戦地の父の帰りを待ちながらハーモニカを吹く場面で「里の秋」のBGMが流れます。このBGMは作者自身によるハーモニカ演奏です。

「里の秋」を選曲した理由について、作者のゆめ工房さんはこう解説しています。
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この場面に「里の秋」を入れたのは、昭和20年12月、東京放送局(現NHK)ラヂヲは、少女歌手川田正子の歌で斉藤信夫の「里の秋」を引き上げ同胞激励の午後」という番組内で流した曲でした。
歌にあるように、静かな静かな・・・栗の実の落ちる音・・静かな夜を迎えて、サイレンの音も、飛行機の音も、爆撃の音もない静かな夜が来たことを、この放送を聞いた人は、改めて実感しました。
そしてまだ帰らぬ人を待ちながら「ああ父さんよ、ご無事でと、今夜も母さんと祈ります」と結んでいます。
少年が父を待つシーンにこの「里の秋」がピッタリと思い、ハーモニカのテープを流しました。
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わかったような、わからないような解説です。

「里の秋」の誕生秘話について、昭和回想@Randomさんのブログに興味深い記事が掲載されていたので、紹介します。
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国民がこぞって歌った「里の秋」

昭和20年12月24日、ラジオで「外地引揚同胞激励の午後」という特別番組が放送された。
その番組の中で童謡歌手川田正子(当時小学校5年生)が数曲の童謡を歌った後、新曲を1曲「兵士を迎える歌」として歌った。
その1曲が「里の秋」であった。放送が終わるや全国から「里の秋」をもっと放送て欲しいという要望が殺到したということである。

「里の秋」の作詞者「斎藤信夫」は、実は「里の秋」の詩を太平洋戦争が始まったばかりの昭和16年12月に既に書いていた。「星月夜」という題名で童謡作曲家「海沼 實」に郵送していたのである。1番と2番は「里の秋」とほぼ同じであったが、3番は父親の手柄を期待し4番は子どもも国を守る決意であるといった戦意高揚の詩となっていたようだ。

詩を送られた「海沼 實」は、1番、2番がやや感傷的でこのままでは当局の許可が下りないと思って曲をつけることを見送って、そのまま忘れていたと言う。
やがて終戦となり4ヶ月がたった。そして、「海沼」にNHKから先述の「外地引揚者激励」の特別番組の新曲の作曲依頼が来たのである。「海沼」が適当な詩をいろいろと探しているうちに、4年前「斎藤信夫」から送られてきていた「星月夜」の詩を発見し、早速「斎藤」と話し合って、世の中の変化に合わせて書き換えた詞に曲を付して名曲「里の秋」は誕生した。

終戦直後、川田正子が歌った童謡は、子が親を偲んで歌う歌が多い。
「みかんの花咲く丘」「里の秋」「とんがり帽子(鐘の鳴る丘)」などである。戦争で身内をなくした人や身内の安否の定かでない人々がいかに多かったかを物語っている。
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よくわかりました。


★里の秋/複音ハーモニカ



複音ハーモニカ:片倉広義


★里の秋/川田正子