「おはよう、直也君。遅かったわね。」
フロアから厨房や更衣室へと繋がる通路に鈴音さんが立っていた。
「おはようございます、鈴音さん。『遅い』って言われても…まだ余裕あるじゃないですか?」
「うふふ…冗談よ。」

俺達が話しているのが聞こえたからか、親父が厨房から姿を現した。
「おぅ、遅かったな直也。びっくりするぞ。」
「はぁ?」

親父が後ろを向き、手招きをすると『PIT・IN』の制服を着た見覚えのある女の子が飛び出してきた。

「えっと…『柴原あゆみ』です。夏休みの間だけここでアルバイトする事になりました。えへっ。」
「あ、あゆみ?!…な、なんで?」

あまりに突然で驚いたが、同時に嬉しさもあった。うまく表現できないが、とにかく複雑な気持ちだった。

「えへへ…来ちゃった。」
「『来ちゃった』じゃねぇよ…どうしたんだよ?」
「まぁ…いいじゃない。」「おいおい…。」
(昨日親父とはこの事を話していたのか。しかし何のために…?)
「直也、いろいろと教えてあげてくれよ?」
「あ、あぁ…分かってるさ。」
(とは言っても、俺もまだ分からない事だらけなんだけどな…。)

とりあえずあゆみにひと通りの仕事の仕方を教えた所で開店時間を迎えた。

「あー、緊張する。」
「大丈夫さ。さぁ開店だ。」
こういう日に限って開店してすぐに客が入ってきた。

「直也、まずはお前が見本となって接客してみせてあげてくれ。」
「お、おぅ…。」
そう言うと親父は厨房へと入っていった。
「あゆみ、ちゃんと見てろよ?」
「うん。」
あゆみが見ているという変なプレッシャーの中、ひとまず俺が接客してみせた。
その客が帰った後、
「まぁ、こんな感じだな。」
「さすがだね…うまく出来るかなぁ。」
あゆみが大きく深呼吸をした時、別の客が入ってきた。
「ほら、ちゃんと見てるから行ってみな…落ち着いてな。」
「うん…。」
多少緊張している様子だったが、問題もなく客は帰っていった。
「あーっ!緊張したー。」
その客が帰った後、あゆみが発した第一声だった。
「うん。良いと思うぜ?」
「えへへ。ありがとう、直也。」
「それじゃ、しばらく1人で頑張ってみな?」
「うん。」
そうは言ったものの、俺はあゆみの事が気になって仕方無かった。

しばらくは問題もなく過ぎていったのだが、鈴音さんの休憩時間…

「きゃっ!」
“ガッチャーン!”
(何だ?あゆみの方から聞こえたけど…。)
慌ててあゆみの方へ駆け寄ると、割れたグラスの側であゆみが茫然と立ち尽くしていた。
「大丈夫か?あゆみ。」
「うん、でも…。」
「気にすんなって…俺だって失敗くらいするさ。」
落ち込んでいるあゆみに俺は優しく声を掛けるのがやっとだった。
「ありがとう、直也…。」
「片付けとお詫びは俺がやっておくから、早く新しいのを持って来いよ。」
「わかった…2番の人だから…。」
「了解。」
そっとあゆみの肩を叩き、ひとまず俺は先に客にお詫びを言いに行く事にした。
俺にとっても客へのお詫びは初めて…上手く出来るか不安ではあったが考えている時間もなく2番テーブルまで向かった。

「お客様、誠に申し訳ございませんでした。」
「ううん…だって、彼女新しく来た子でしょう?」
「えっ?はい、そうですが…。」
(常連さんか…。)
「ここにはよく来させてもらってるんだけど、また1つ新しい楽しみが出来たよ。」
「直ちにご注文の商品を持って参りますので、もうしばらくお待ち下さいませ。」
「うん。ありがとう。」
(良かった。本当に良い人で助かったよ…。)

テーブルを離れると同時にあゆみが戻ってきた。
「直也、ごめん。」
「いいから早く持って行きな。あのお客さん常連みたいで、なんだかあゆみの頑張りを期待してるみたいだったぜ?ちゃんと話しておいた方が良いぞ。」
「うん、わかった。」

割れたグラスを片付けながらあゆみの方を見ると、その客と笑顔で楽しそうに話をしていた。それを見て俺はホッとした。

その後、鈴音さんが休憩から戻って来ると俺は休憩を取る事にした。

厨房へ入ると待っていたかのように親父が声を掛けてきた。

「おぅ直也、どうだあゆみちゃんの働きぶりは?」
「まぁ、初日だしな。俺もまだ偉そうな事は言えないけど慣れりゃ大丈夫だろ。それよりどうしてあゆみを雇ったんだよ?」
「あゆみちゃんは何度か客として来てくれていたし、なんと言っても可愛いからな。」
「あのなぁ…。バイト代はどうするんだよ?」
「どうするかな…確かに厳しいが、おまえにとっては良い刺激になるんじゃないのか?」
「な、何がだよ…。」
「ほほう…図星のようだな?」

昨日の反撃とばかりに親父が次々と口撃を続けて来る。

「な、何だよ…勝手な想像するなよ。」
「ふっ…まぁしっかり頼むぞ。あゆみちゃんの教育係。」
「…。」

その後は問題も無く閉店時間を迎えた。

「はぁー、終わったー。」
「あゆみ、どうだった?」
「うん、ここのお客さんが本当に優しくて良かった。あのお客さんにも『これから頑張ってね』って励ましてもらっちゃったし、充実した1日だったな。」
「そうか。でも来週からは同じ失敗は出来ないぞ?」
「うん、だけどもう平気。精一杯頑張るから。」
どうやら、あゆみはすっかりいつもの元気を取り戻したようだ。
「そうだな。あゆみにはその元気があるからな。」
「そうよ。やっぱり私はこうじゃなきゃね。あっ、私鈴音さんと約束してるから先に出るね。じゃあ今日はありがとね。また来週頑張ろうね。」
「あぁ。」
あゆみは着替えて先に帰っていった。

(しかし…本当にあゆみはなんでここで働く事にしたんだ…?考えても分かる訳無いけど…。)

そして翌週の月曜日、なんとなく早めに店に行くと鈴音さんが店の前に立っていた。

[続く]