にゃあさんのブログを読んで考えました。
なぜ、前者は共通解を探して、それを正解としようとするのか?
私の頭に浮かぶのは、
最大多数の最大幸福
という言葉。
平面上の生き物である前者は、社会全体…というのは大げさにしても、コミュニティを円滑に運営することを一番の正義と考えるところがあるんではないかと。
そんな場合、個々人の要望、意見を全て叶えるなんて無理だから(と思っているから)、最大公約数を導こうとするんだ。
それが、この世界を平和に保つ術だと、それこそがベストなんだと無意識のうちにも考えてるんじゃないか、と思います。
だけどそれだと、その幸せの仕組みから洩れる人が出てくる。
それが、頭の片隅で気になっていました。
その人達に、次の機会はあるのか。
常に最大多数側に入らない人には、一生スポットは当たらないんじゃないか。
そして、それはもしかしたら自分だったりするかもしれない。
そう思い当たった時、怖かった。
ゾーッとしましたよ。
一生スポットあたらないの?私の望みは、叶わないかもしれないの?て。
けど、だからといって、最大公約数の考え方を拒否することは、自分勝手で和を乱す行動なんだと、自分を律していました。
結果、望みが叶わない前提を持ってしまったんだけれど。
けれど大人になるにつれ、その平和維持の考えに矛盾が出てくる。
私が平和維持活動(笑)に従事していても、感謝されるどころかウザがられることも多い。
あまつさえ、偉そうだの上から目線だのと責められることもある。
なんなら、私が平和維持活動なんかしなくても、勝手に幸せで楽しい人達はいる、間違いなく。
それもかなりの数で。
私は何を頑張っていたの?
私、もしかしていらない?
私なんて居なくたっていい?
そうショックを受けて、拗ねました。
わかりやすく、後ろ向きになりました。
けれど、それは違う、と言ってくれる人が居た。
「お前がこうやって陰で動いてくれるから、みんな助かってる。
なのに感謝なさすぎ、要らんはずないやろ?
だって俺には出来んもん。
お前は、そーゆーとこが凄い。」
これ、言われた時に、涙が出ました。
ちゃんと、見てくれてることが嬉しくて、それだけで報われた気になりました。
人の役に立ちたい、そう思うのはもはや前者のサガなんだと思います。
それがアイデンティティ。
だけど今思えば、最大多数の最大幸福に捉われるあまり、自分の望みに気が回らなかった。
コミュニティの継続のための平和維持、そして未来へ向けてそれをなくさないために努力して、「今」「ここ」が疎かになっていました。
だからどこかで不安を抱えてた。
幸せになりきれない感じを抱いてた気がします。
強い主張を持つ後者の、その存在の、ハッキリとした輪郭に憧れる。
その強さの前には、共通解なんてぼんやりしたものは、かすむのです。
だから、常識という名のその共通解を声高に叫びながらも、それでもその共通解を心の底から信じられなくて、後ろめたさを感じるんじゃないか、と。
なんか、まとまりないですけどね(´ㅂ`;)