2024年4月21日 日本で一世を風靡したフジコ・ヘミングが亡くなった。

 

私自身、彼女のコンサートに足を運んだことはないが、メディアが盛んに彼女のことを取り上げるので、映像や録音でなら何度も聴いている。

 

一聴衆としての私は、ピアニストとしての彼女をそれほど高くは評価していない、もしくは、好きではない。

こんなことを書くと、避難ごうごう、という予想は容易につくが、彼女の感情的でやや粗さが目立つ音、頻繁なミスタッチは、音楽として聴いている耳には、どうしても引っ掛かりが多くなる。

ピアニストとしてならば、ポリーニ、内田光子、オピッツなどの、心臓を締め上げるような美しい音を奏でる演奏には遠く及ばない。

 

しかし、アーティストとしての彼女ならば、私は素晴らしいアーティストとして記憶されるべき人物であると感じている。音楽としてではなく、ピアノというツールを使って自己表現するという手法において、彼女ほど大衆の心を掴んだアーティストは稀かもしれない。

 

では、こんなに偉そうなことを言っている私は、音楽演奏とアートの違いは何だと考えるのか。

これは人それぞれ違うように思うが、私が考える、いわゆるクラシック音楽の演奏は、「再生」である。

作曲家が意図した音を、如何に正確に「再生」するか。その精度と技術を追求するものだと考える。

一方、アートは、「創造」であると考える。何もないところから、美しさ、感動、衝撃、など、人の心に作用を及ぼすものを創造する。

そういう意味で、作曲家はアーティストとニアリーイコールと考えるが、演奏者は違う。

 

フジコ・ヘミング個人で言えば、彼女自身が言っているように、彼女の演奏にはミスタッチが多い。これは演奏家としては全く話にならない現象であって、作曲家が全く意図していない音や響きを出すというのは、曲と作曲家に対する冒とくである。音楽として聴くに値しないものだと言ってもいい。

少なくとも私は、ある曲を聴きたいと思ったときに、彼女の演奏は選ばない。

 

しかし、直そうとも思わず、批判する方がおかしい、という彼女の言もまた真実で、彼女のパフォーマンスを目的として聴く限り、ミスタッチ自体がミスタッチではなく、彼女の感情の発露である。その場合、もはや作曲家も曲も何の意味もなさず、ただ彼女の表現の土台であるに過ぎない。だから彼女の演奏に限っては、ミスタッチを批判する理由がない。

 

 

音楽において、「再生」と「創造」と、どちらが尊いのか、ということは議論しても仕方がない。好みとしか言いようがないからだ。オピッツとエルトン・ジョンのピアノ演奏を比べても意味がないのと同じである。

 

しかし、念のため申し述べたいのは、「再生」というものの、想像を絶する困難さと奇跡だ。

 

スイッチを押せば、もっと言えば、イヤホンを耳に入れた瞬間に何かしら音が「再生」されてしまう現代生活において、「再生」という言葉は非常に軽く聞こえるかもしれない。創造性のかけらもない、と思われるかもしれない。

 

しかし、音楽における概念として、演奏家による「再生」は、鍛錬と研究、極度の緊張と身体的特徴を必要とする。作曲家の意図を正確に深く理解し、正しい(と演奏者が考える)音を再現していく作業は命綱を付けずにナイアガラの滝の上を綱渡りしていくような作業と言っても過言ではないだろう。

 

楽譜に書いてある情報、作曲家の意図や精神状態を研究考察し、そのうえでどのような音を出すべきか、その範囲において演奏家の技術と解釈が試される。

そして、解釈通りの音が自分自身とその楽器から発せられるか、ということの問題もある。努力すればできるというものではない、という残酷さを持つのが「再生」である。

私自身は、どれほど努力しても、こうあるべきだと考える音を出せたことはない。その絶望に至るまでには長い苦しみがあったが、それは今は割愛する。

 

 

私が耳にする範囲で感じるのは、フジコ・ヘミングは演奏家ではなく、純然たる、しかも素晴らしいアーティストである。

彼女のようなアーティストを喪った世界は、やはり少しツマラナくなったのだろう。

彼女の訃報に接し、心から哀悼の意を表したい。

R.I.P