ウィルウェイです。
本日は「松尾鉱山跡地の森林化」についてご紹介します。
松尾鉱山は、1914年(大正3年)に創業し、東洋一と言われるほどの硫黄産出量で科学産業を支え、繁栄していた。しかし、石油脱硫装置から産出される人工硫黄によって天然硫黄の需要は激減し、1969年(昭和44年)に経営破綻し閉山。跡地は鉱滓がむきだしの状態で放置され、緊急覆土工事にて粘土が厚く敷きつめられたものの、長年にわたり植物が生えない荒れ果てた姿をさらし続けた。この事に心を痛めた有志が植樹試験を始め、2002年よりは市民組織が誕生。2020年代においては木々が育ち、ツキノワグマやカモシカも住むほどの深い森が蘇った。
閉山後の鉱山跡地には、硫黄の鉱滓が大量に推積されており[注 1]、車で走ると粉塵に引火し、排気管から青い火が尾をひくと恐れられ、鉱滓に触れた雨水が強い酸性を帯び、下流の北上川沿いに甚大な被害をもたらす恐れがあった。
このため岩手県は、「鉱害発生源対策」として、鉱区のほぼ全域を均し、粘土を厚く敷きつめた後に重機で堅く踏み固め、排水路をめぐらすなど雨水が地下にしみ込まない措置を講じ、さらにその表層に牧草を播種する「緑化工」を行ってきた。
しかし、踏み固めた緻密な土層には、植物の成長に欠かせない水分や空気、栄養素も含まれておらず、表層に基盤材と混ぜて吹き付けた牧草の種は根が育たず、年々植生が衰退していった。植生が衰えむき出しになった斜面では、雨風による土壌の崩壊も始まり、根を張った木が葉を落としていかないと草の維持も難しいことを示した。
このような状況に心を痛め、植樹の試験に取り組む事例もあったが、予測を超える厳冬期の烈風や土壌の凍結、酷暑や乾燥などの厳しい環境条件に阻まれ、期待した成果を挙げることができなかった。
鉱山跡地は八幡平アスピーテライン脇に位置し、広大な原野は一般市民や県内外から来る観光客の目にとまりやすかった。広い荒廃地に目をつけた団体による重機を使う災害復旧の訓練施設つくり構想を皮切りに、観光牧場、修学旅行の自然体験、サーキットランド、はては心霊スポット探訪ツアーなどの利用構想が個別に多数表明され、公的なシンポジウムも開かれる等、広く関心を集め始めていた。
この事態に、鉱山跡地[注 2]を管轄する盛岡森林管理署は、錯綜する問題処理の対応を民間窓口に一本化するため、2002年から植樹活動に取り組み、全面的に協賛していた市民団体に対応を委ねることとした。
管理署からの働きかけを受けた(社)東北地域環境計画研究会は、志を同じくする友好団体である、NPO法人森びとプロジェクト委員会と、NPO法人岩手NPOセンターに呼びかけ、この三者で2008年2月1日、「松尾鉱山跡地再生の森協議会」を結成。2008年5月20日、盛岡森林管理署と、鉱害発生源対策を担う岩手県との三者で「松尾鉱山跡地における森づくりに関する協定書」を締結。
こうした動向が報じられる[11]と、広く共感を呼び、問題意識を抱えつつも森づくりに手を出しかねてた多くの市民が手弁当で自主参加し、全山120ヘクタールに及ぶ広大な鉱山跡地の森づくりが本格化した。