Willow’sの歴史を振り返る、というテーマのルポを寄稿するにあたり、正直に述べておきたい。私のシェイクスピア作品に対する感覚は「なんとな~く内容がわかる作品はいくつかあるけど、ぶっちゃけどの作品にも詳しくないし愛着もない」。これである。シェイクスピア愛好家の閲覧者さまには心から申し訳なく思う。だが、私が自分の無知を恥ずかしげもなく白状したのは「それでもWillow’sは面白い」ということこそ、伝えたいからだ。

 詳しくなく愛着もない私が楽しめるというと、Willow’sの作品は観客に対して親切なのか。ここは少し悩んでしまう。演出や俳優の演技、舞台装置エトセトラに対して「一体アレはなんなんだ」と頭を抱えたくなる瞬間が、観客には訪れるかもしれないから。だが、頭を抱えているその瞬間にこそ、楽しみたい、知りたい、考えたい、そんな想いが溢れるような感覚に覚えはないだろうか。その感覚に最大限応えてくれるのがWillow’sだ。作品に真摯で強い芯があり、それがわかるから目が離せない。目の前で展開される会話を、動きを、物語を、ずっと追いかけていられる。こういう誠実な面白さこそ、Willow’sの魅力だと私は思っている。

 前置きが長くなってしまったが、今回はWillow’sの2作品目にあたる「十二夜」について紹介していく。シェイクスピアの代表的コメディー、とも謳われるこの作品では、複雑に入り乱れる人間関係や恋模様が描かれる。物語は双子のセバスチャンとヴァイオラが船の難破で離ればなれになったところから始まる。兄が死んだと思ったヴァイオラは少年に変装してオーシーノ公爵に仕えるが、そのうちに公爵へ恋をしてしまった。オーシーノ公爵には令嬢オリヴィアという片思いの相手がいるのだが、なんとそのオリヴィアはヴァイオラを本物の男性と思い込んで恋をする。そしてそして、実は双子の兄・セバスチャンも生きていて、彼は彼で妹が死んでいると思ったまま街へやってきて、悪ふざけ好きのヴァイオラの叔父・トービーとその周辺人物が織りなす事件に巻き込まれ…… と、あらすじだけでてんやわんやな作品である。(余談だが、私のようにシェイクスピア作品をぼんやりとしか知らない人も、観劇に対して身構えないでほしい。シェイクスピア作品は観てみると素直に面白い。恋にはちゃんときゅんきゅんする。さすが。)

 Willow’sの描く十二夜においては、「本」がキーアイテムになっており、当時公開された公演ビジュアルも図書館で撮影されていた。せっかくなので、楽しく頭を抱えながらこの本について考察してみたい。舞台には平行四辺形の形をとる木製の舞台装置があり、俳優が装置に乗って「辺」にあたる部分を移動したり、真ん中にあいた穴に入ったりしながらアクトする場面が多々ある。そしてこの「辺」と床の間には本が立てられ並んでおり、観客の目にはこの平行四辺形が4つの本棚から成る舞台装置に見えるのだ。舞台が開幕すると一冊ずつ本を携えた俳優たちが装置に沿うように座り、本を開く。そこへオーシーノ侯爵が現れると、俳優たちは本を開く・閉じるという動作で「ぱたん、ぱたん」と本を鳴らす。侯爵の台詞からそれが音楽になぞらえられているのだと理解できるのだが、作中ではさらにいくつかの物が本に置き換えられる。印象的なものでは、オリヴィアが自らの顔を覆うヴェールや、オリヴィアからヴァイオラによこされた指輪や姿見・オーシーノ侯爵がオリヴィアへ贈った宝石などである。

 作中で明確に「本」に類する単語が登場するのは、オーシーノ侯爵が少年に扮したヴァイオラへ言った台詞「お前には、心の秘密の書物を何もかも開いて見せた」というものである。これを素直に参照するのは少々安直ではあるが、いったん「本」とは人々の心にまつわるなにかのメタファーなのではないかと思う。指輪や宝石が本に置き換えられたと前述したが、オリヴィアの侍女・マライアが作成した嘘の恋文や、騎士・アンドルが周囲に唆されるがまま書いた決闘状は、本に置き換えられていない。これは、同じ「誰かが誰かにおくるもの」であっても、そこに当人の「心」はないからではないか。そう思うと、俳優たちが本を鳴らす音が音楽となることや、本棚の天板の上や周囲で物語が織りなされていくありさまはたくさんの人々の恋心や思惑が交錯する「十二夜」を象徴しているようにも見えた。 こうして本が象徴的に扱われる作品のなかで異質なのが、道化・フェステが終始「スマホで」「周囲をずっと撮影している」光景である。フェステを演じる高橋拓己は公演ビジュアル内でも唯一PCを持っていた。本とスマホは情報媒体というカテゴリは同じくするかもしれないが、世界に対する内と外、という意味では全く異なる性質を持っているように思う。作中にいるようでいない、異質な第三者である道化が「心」にまつわる本を持たず、世界と繋がるスマホを掲げて、自分と他人の心に踊らされる人々を撮影し続けているというのはもう、まっすぐに言えばめちゃくちゃに面白い。この演出によって道化自身は物語、人々の生きるイリリアから距離を置くかわりに、私たち現代の観客と物語を近づけ、繋げているように思う。「過去を生きる、現代のシェイクスピア」を掲げるWillow’sらしく、魅力的なアイデアといえるだろう。この特殊な役割の中で、道化らしい異質さとコミカルさ、時折本質をつく鋭さを魅せた俳優の力にも目を見張る。

 さて、ここまででシェイクスピア作品に対して「なんとな~く内容がわかる作品はいくつかあるけど、ぶっちゃけどの作品にも詳しくないし愛着もない」私がWillow’sを楽しめる理由は多少なりとも伝わったと思う。鮮やかな人々の想いが渦巻くこの作品を、本というモチーフで彩った本作は、Willow’sというユニットの「描き方」を観客に印象づけた公演だったのではないだろうか。

 

▶出演
フェステ/高橋拓己(Willow's)
ヴァイオラ、セバスチャン/宮西桃桜子
アントーニオ/井神雅基
公爵 / 黒田和宏
オリヴィア / 林美那
マルヴォーリオ / 武藤雄太
サー・トービー/木川流(Willow's)
マライア / 柴田小雪
フェイビアン / 浦野朋也
サー・アンドルー / 込江芳

 

(文章・花香みづほ)