今日、ショーペンハウアーの著作「幸福について」を読了した。
300ページ以上ある本で、内容が盛りだくさんのため、あと何回か読まないといけないと思ったが、
得られら部分は多かったように思う。
人はみな幸福というものがあると思い込んで、その迷妄に惑わされ、ついには何もないことに気づき、幻滅するという。
外面的なものはすぐ私たちに働きかけることが可能なため、それに惑わされ存在しない魅力的な幻想に振り回されてしまう。
そうではなく、実際に存在する災難や災害などの直接的な類から身を守る努力をし、平穏で閑暇な生活を送ることこそ、
本当の意味での幸福と呼べるのではないか。
ショーペンハウアーは、幸福というものはそもそも幻想であり、今生きている世界ですべきことは、あらゆる厄災に備えて
なるべく平穏に生きられるようにすることであると述べている。
すべてを理解できたわけではないが、自分の生活と照らし合わせるといくらか真実めいている気がしなくもない。
外面的な影響に伴って発生した欲求に駆られて行動したとき、大抵は幻滅することが多い。これは影響要因によって頭の中で
欲求が必要以上に肥大化された結果だと考えられる。もともとやりたいとは思っていなかったことが、主に視覚刺激による作用で
欲求へと昇華しているので、いざ実践するときにはもはや元の自分に戻った状態であり、その欲求を持っていないのである。
そのため、一時的には爆発的な興奮、快楽を得られたとしても、後には絶望的な虚しさだけが残るのである。
おそらく人は何かを常に欲していた生き物なのだと思う。ショーペンハウアーも言及しているが、人生には困苦と苦痛が存在し、そこから
逃れた場合あらゆる場面で退屈が待っている。苦痛から逃れるために多くのものを欲し、その先に待つ退屈から逃れるためにまた何かを欲するようになる。人は生きている以上、何かを欲していなけいなければ上に挙げた二つの事柄によってつぶされてしまうのだろう。
特に、青年期ではあらゆる葛藤が起こり、なぜ生きているのか、人生の意味について考えてしまう。それは、青年期ではまだ精神的に未成熟であり、平穏な生活のすばらしさを理解できていないからである。常に何かが足りないと探しているが、実際探しているものも、探しているという行為そのものもすべて無である。何も初めから存在しないのだから、探しようがない。明確な道理である。
私は現在、青年期の真っただ中であり、探しても見つからないものをひたすら探している。
何を探しているのかも、どうやって探しているのかすらもよくわからない。