今日の行動記録:職場と家を往復。

 

 

僕は昔から他人の目を気にして生活してきた。小学生、中学生の頃はなるべく先生に怒られないよう常に優等生でいられるよう意識していた。宿題等忘れ物をすることが度々あって怒られたが、何か悪いことをして先生に叱られたことはほとんどない。授業中には静かにしていたし、手を挙げてよく発言をしていた。その方が先生がやりやすいだろうし、なにより怒られることがなかったからだ。また、みんながやりたがらない学級委員や生徒会長等も進んで手を挙げてやっていた。普通に考えれば、人をまとめたり人前でスピーチをしたりするのは面倒なことだし恥ずかしいという思いが強い。そのためその役割を決めるときに立候補が出てきづらく、なかなか決まらないことが多い。そういう時は、決まって手を挙げて自分がやると言っていた。これは、他の人がやろうという気持ちが一切ないことが当初からわかったため、らちが明かないということで自分が立候補をしていた。小さいころ(中学生も含む)は個人個人が思うように動くため、何か決めごとをするのに多くの時間がかかる。妥協を知らないため自分の意見を通そうという人が多かった。僕はそれを見ていつまでやってるのかと腹を立てるくらいなら、自分が嫌な役を買って出たほうがスムーズに決まるじゃないかと常に思っていた。学校では席替え、修学旅行等の班決め、席順などなど決めなければならないことが多く存在する。その都度その都度互いが意見をぶつけていたらきりがない。結局僕はいつも譲る側で生活を送っていた。そのため、正直義務教育にいい思い出が少ない。嫌な役を常に担ってきたからだ。

しかし、今になって考えると小さいころの経験が相手の気持ちを考える能力を高めてくれていたと思う。なぜみんな譲らないのか?威張っている偉そうな人だけ常に自分の好きな席を獲得できるのはなぜか?なぜ一回くらい我慢ができないのか?と何度も考えていた結果、いつの間にか相手が何を考えて行動しているのかを意識しながら生活ができるようになったらしい。どんな人でも他人の目線を気にしながら生きなければならないと思うが、実際に損な役を受けていたことでより一層他人を気にするようになったようである。

社会に出てからは結構この能力が使える。どれくらいの声の大きさ、調子で発生すればいいのか、表情や態度でいえば嫌われないのか何となくわかる。同じ時期に入った新採の人よりもその部分は勝っていると自信をもって言える(比べる意味はあまりないが)。

今後会社で生活していくうえでは必ず必須能力になってくると考えられるため、さらに力を伸ばせるように他人を意識しながらやっていけたらいいと思う。

 

なんか違うなぁ