その日は朝から”月”が見えていて、かなり上機嫌だった。


何かが新しく始まる予感がしたし、風の匂いがとても好みの匂いだったから。






踏み込んではいけない処。考えてはいけない事。


明確なようで、”もや”がかかったように見えるものから逃げてばかりで、


落ち着かなくて、結局のところは弱い自分をただ見ているだけの現実。


どこにも行けないし、ぶつける先をも見いだせずに、自分を少し痛めつける位の


反抗しか出来ない事実。






弱い雨に濡れて少し気分は落ち着いていた。


どれくらい歩いたのだろう。足元がふらつく位の、まっすぐ歩けないくらいの


アルコールを蓄え岐路についたのは、何時くらいだっただろう。




何も身に纏わない身体に


少し冷たい部屋の空気を感じて目覚める。


部屋の床に散らかった衣服を目にして、


冷え切った布団にもぐりこんだ間隔がよみがえる。


また朝を迎えてしまった安心感と罪悪感の中、


「お腹空いたな」って思う事さえも、罪悪感を覚える中、


現実へと自分を戻していく。


窓からの光を感じて、


いつもの繰り返しの「生きてる」という事だけが確かな現実を感じ、


まだ少しアルコールで鈍い感覚のまま、シャワーを浴びる。




少し遅い出勤も考えてはみたが、いつも通りに家を出る。


そして”月”に出会う。


「ありがとう」と心の中で呟いてみた。




会社近くの移動式カフェで、珈琲を購入しての出社。


比較的静かな社内で、パソコンを起動して静かなモーターの音を聴きながら


今日の仕事へと少し意識を移し、


流れ作業的な午前中の仕事を黙々とこなしていく。


まだ酔った身体で、黙々と仕事を片付けて行く。


空はいつもそこにある。


「ここからは”月”は見えないな」






そして、ランチの時間の数分前に携帯のバイブ音。


メールが届いた。


急に落ち着かなくなる。


煙草を一本、ゆっくり吸ってからメールを確認した。




「お昼一緒に行きましょ。きっと、二日酔いでしょうから、お蕎麦でもどうですか?いい店見つけたんです。」


ホッとしたのか、少しあてが外れてがっかりしたのか、判断がつかないし、


いつも驚くタイミングで送られてくるこのメールにもなんと返したものかしら。




「あなたは、何も変えたくないのよ!


私に愛してるとは、絶対言わないし


今まで通りなんだわ!


私をどうしたいのよ!


私にどうしろって言うのよ!」


数日前のやり取りを思い出す。


彼は、そっと私を抱きしめる


「違うんだ」と彼は言った。






結局お昼を一緒にとることにした。


「やっぱり二日酔いでしたね。


でも一人ばっかりですね。一度くらいは、僕を誘ってくれてもいいんじゃ無いですか?」


「そうね。そのうちね。


満月じゃ無い夜ね。」


「オオカミになるから?」


「そう」


「雨なら月は見えないし、僕はずっと紳士でいるよ」


「そうね。でもこうして今一緒に食事してるから、いいじゃない。」


「でもお酒で潤んだ瞳に、映り込んでみたい」


にっこり笑ってこんな事を言うこの男といると不思議穏やかな気分になる。


「また、坊やと喧嘩?」


「君も充分に坊やでしょ」


私のファンだと言って、時々誘いのメールを送ってくる男。始めて会った時に、すごく酔ってしまって、なんか色々話してしまった。ただ泣き言を言っていただけでも、充分な失態だった。しかも、仕事関係の人間に対して、初対面での大失態だった。


この男は、私の事を以前から知っていて、

「ずっとファンでした」と言われたのは、覚えている。

記憶は一部曖昧ではあるけれど、覚えている。



だから、次の日に営業先で名刺を差し出した時は、かなり驚いた。


お互いの上司同士が学生時代からの友人で、仕事の打ち合わせの後に行った居酒屋で、少し飲み過ぎた。上司が帰るのを見送って、「お疲れ様」の挨拶の後、酔っている自分に気づいた。


「ごめんなさい。少し酔ってるみたい。ちょっと支えてもらってもいいかな。」

名前も知らないし、ただ相手の上司の隣に居ただけの男に、声をかけている時点で、間違いだった。

「大丈夫ですか?タクシー停めましょうか?」


「いえ、少し休憩してからにするから。」


支えられて、すぐ近くの店で温かいお茶を飲んだ。


なんだか情けなくて、落ち込んで、話してしまった。ただずっと何も言わずに聞いてくれていた。


自分一人で歩けるようになって、タクシーで帰った。その時に「ファンでした。」と聞いた。なんだろう。詳しく話した訳ではないけれど、それから何度か昼食に誘われる度、少し楽になる。



年齢をはっきり聞いた訳ではない。でも、ずいぶん年下なんだろうという印象で、仕事はよく出来るし、ルックスもいい、性格も問題無い。そしていつも「お見通しだよ」と瞳が語っている気がする。優しく私を見つめる瞳。




「今日誘ったのは、これが手に入ったのもあるんです」


そう言って見せられたチケットに、素直に喜んでしまう。


「すごい!手に入ったんだ。ありがとうございます。」深々と頭を下げる。




「で、二枚買ったので、隣に座ります。」今度は向こうが頭を下げる。


「まぁ、知らない人が座るよりいいかな。」


「勝手に貴方の誕生日の夜にしました。デートの予約がはいるはずだったらすみません。」


「予約が入らない事知っているんでしょう。」




きっとこの男となら、とても心地よいのかもしれない。もう少し早くにだったら、傾いていたのかもしれない。でも今は無理だ。


「でも、いいんですか?坊やが泣き出しません?」


「その坊やって言うの、なんかおかしいわよ。心配くらいはすると思うけど、泣き出したりはしないわよ。」


「一人ぼっちの誕生日ですか」


「いつだって、一人よ。」


「僕ならいつだって、側にいますよ。」




そうだな。いつだってギュと抱きしめて欲しいだけだ。

簡単なのに難しい事。そして何も代わりにはならない事。



「今から東京出張なんですが、お土産何がいいですか」


「それより見積りを早く送って欲しいんだけど。」


「ははっ。東京に着く前に必ず送ります。」


「頼むわ。明日の打ち合わせの資料も先に送ってもらえる?」


「また仕事モードですかぁ。二人の時くらい、力抜いてくださいよぉ~。」


「恋人じゃ無いんだから。普通よ。」


「観劇の後に、乾杯なんてのも無理なんだろうなぁ~」


「良く解ってるじゃない。」


「いいですよ。明日は仕事でも長い時間貴方の側にいられる。




新しく始まるんだろうか。



いや、何も始めたくはない。


終わりの予感がする始まりは辛いし

大事にしたいと思うけれど、

いつまで私のわがままに付き合ってくれるのだろうか。

案外簡単に、私が落ちて行くかもしれない。

どちらにしても終わるのならば、充分にこの距離感を楽しみたい。


そうだった。

そうなんだ。

彼と私は、まだ何も始まっていないから、だから、終わりの予感がしないのかもしれない。

そんな風にふと感じていた。