新潟県の旧山古志村(現長岡市)が全村避難を強いられた2004年10月23日の中越地震で、一人の… | also171のブログ

also171のブログ

ブログの説明を入力します。

投稿写真

新潟県の旧山古志村(現長岡市)が全村避難を強いられた2004年10月23日の中越地震で、一人の若い村職員が過労死した。 被災地を離れ持ち場に戻った同年12月、星野さんの死を知った。12月21日に被害状況の調査を終えて車で戻る途中、信号機に衝突した。 松山市の主婦、青木弥生さん(75)が記事に目を留めた。「故郷のために身を粉にして働く青年が、命を落とすなんて」。青木さんは哀悼の気持ちで、星野さん方に線香を送った。母信子さん(67)は手紙で謝意を伝え、「もう少し、お付き合いさせてほしい」と提案。顔も知らない2人の交流が始まった。 地震から1年後に私が訪ねた時も、信子さんは悲しみが癒えず、寝込みがちだった。夫の祐治さん(72)とともに06年村に戻り、農業を再開したが、失意の日々から抜け出せずにいた。そんな時に青木さんから、自宅の庭に咲いたという黄色の水仙が届いた。息子の仏壇に供え、お礼に自慢の米を送った。今度は愛媛のミカンが送られてきた。 青木さんの方は、信子さんから山菜やトマト、ピーマン、米が届くたび、感謝の絵手紙を送った。ウドを味わうと「山古志の春 土の恵みがすばらしい」。米のおいしさに「やっぱり(食卓の)主役はお米です」。 10年秋、信子さんが松山市の道後温泉を訪れ、初めて対面した。写真で知る恵治さんの面影がある、と青木さんは感じ、ことさらに励まさず、松山の魅力を語った。引きこもりがちな信子さんが旅行に出かけることは、明るさを取り戻すきっかけになるのではないかと考えた。 1年半後、今度は青木さんが新潟を訪ね、信子さん宅で2晩過ごした。田んぼをホタルが舞う夜、「次は一緒に長岡の花火を見よう」と語り合った。 被災者を支援し続けることは、たやすくない。だが、青木さんは「特別なことは何もしていない。新潟と愛媛は土地柄が全く違うので、ごくありふれた生活を互いに紹介し合っているようなもの」と気負わない。 私は今月、信子さん方を訪ねた。「身内にはつらくて言えないことも、青木さんには打ち明けられた。明るい声を聞くだけで気が休まります」。明るい声だった。10年続くさりげない気遣いの積み重ねが、前に踏み出す力を与えているようだ。 「妻の切なさを知り尽くしている自分には、励ますことなどできなかった。それができるのは、第三者しかいない。命を助けられたようなものだ。