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WILL's blog

自分自身と向き合うためのブログ。


何度となく書いてしつこいが、俺は世間にカミングアウトせずいわゆる"一般男性"として生活している。
性同一性障害(以降GID)当事者だがGID当事者として生きてはいないし、生きたくないからである。

当事者だが当事者として生きるのは嫌だと、自分と同じような思いで生きておられる方のブログやHPをいくつか拝見した。
みんながみんなそうではないと思うが、そういった方々は当事者同士で友達になることを避けている方が多いように見受けられた。


何故だろう?


と、ふと思った。

彼らの考えや思いに「その通り!!」「俺もそう思う!!」と共感することは多々あるが、そこだけはどうしても共感することができなかった。
(そりゃあ、共感できないこともあって当然なのだけれど…)。


俺は当事者の友達がいたっていいと思うし、むしろ最近では、欲しいとさえ思っている。
メールや電話で普通に話したり、住んでいるところが近いのなら一緒に飲みに行ったりとか。当事者同士でしか話せないことだってあるだろう。
当事者同士での馴れ合いだとか傷の舐め合いだとかそういうのは好きではないだが、そればかりではないはずだ。


趣味が同じだから友達になったとかそういうのとあまり変わりないように思う。
当事者だからどうだとか関係ない。
たまたま同じものを抱えているというだけの話ではないのだろうか。


もっと言うなら、俺は冒頭に書いたそういう生き方をしているが、そんな俺とは真逆の生き方をしている人とであっても、お互いがお互いを受け止めることができれば友達になれるのではないだろうか。なれないのかな?
その人が胸を張って生きているのであれば、どんな生き方であろうとそれはどれも正しい生き方だ。



当事者とは友達になりたくないという理由の一つに、
「周りから一緒に見られたくない」
というのをいくつか見かけた。


GIDだけに言えることではないな。
あの人は病気を患っているから、障害を抱えているから、貧乏だから、いじめられているから、ちょっと変わっているから、同性愛者だから、GIDだから、とか?
××だから、友達にはなりたくない。ということか。


「俺はこの人とは違いますよ」と。


それはとんでもない偏見だ。
それに、自分で自分の世界を狭めてしまっているのではないか?
とても閉鎖的だと感じる。


たとえ「一緒に見られたくない」のだとしても、「自己」をしっかりと持っていれば、そんなバリアを張って生きる必要はない。



そんなたった一つのデータだけでしか人を見ることができないのか?
大切なのはデータではない。本質だ。
そんなデータにばかり拘っていると、その人の本質が見えなくなる。

友達になれる/なれない、なりたい/なりたくないの基準は、「あの人は××だから」とか「自分とは考え方が全然違うから」とかではなく、その人自身がどういう人間であるか、ということだ。


俺はそう思っているし、これからもそうありたいと思っている。